安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

高森会長が「真実を説き切っている」とはとても言えない件について(セイウチさんのコメント)

セイウチさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
エントリーが遅くなり申し訳ございませんでした。

いつも盛り上がった場面で「つ・づ・く」となるテレビアニメのような手法を使うとは、「皆々、信心決定あれかし」の精神を離れ、「参詣あれかし」になってますね。
こんなやり方で「私は真実を説き切っている」と言えるのでしょうか。(もっとも、ここ数年はこのセリフは言ってなかったように思いますが)(セイウチさんのコメント)

仰るとおりで「真実を説き切っている」と言えるものではありません。
私が親鸞会に在籍していた2年前でも「私は真実を説き切っている」ということは、ほとんどいわなかったと記憶しております。
「真実を説き切る」は、親鸞会では以前「信前信後の水際を説くこと」と言っていました。
親鸞会発行の顕正新聞平成23年3月1日(火)第890号にはこうあります。

信心とはどんな信心か、信心を獲る前と、後で、どこがどう変わるのか。それに答えなければならないが、”正統派”に、それはできることであろうか。(親鸞会発行顕正新聞・平成23年3月1日号5面「”異端”の『歎異抄をひらく』正統派を閉め出す より)

このように機関誌に堂々と主張しながら、最近の親鸞会館での法話や座談会は、「信心を獲る前と、後で、どこがどう変わるのか」には、まったく言及していません。
弥陀に救われる前には「まず善をせよ」「それが弥陀のお計らいだ」とこれ一つです。少なくとも、救われる前の手段の話をして、信前信後でどうなるか、ということには全く言及していません。
しかも救われる前には「善をせよ」の一点張りです。(浄土方便の善についての話)

親鸞会は、外部から親鸞会に対して行われる批判の内容を、そのまま親鸞会から別の団体に対する批判として使うことが多々あります。親鸞会結成以来50年間「自称」正統派だった親鸞会は、今回そのまま伝統新宗教団に対して「自称」正統派と言っています。
顕正新聞の以下の記事は、その特徴がもっともよく現れていると思いました。

もはや著者の勝手な解釈でまとめた歎異抄本は通用しなくなった。自称・正統派は、自分たちの教えていることと、親鸞聖人のご教示との矛盾に直面し、これまでの主張を通せば祖師を否定しなければならないジレンマに陥っている。(親鸞会発行顕正新聞・平成23年3月1日号1面『歎異抄をひらく』発行3年変わる真宗界・〝正統派〟なお沈黙続く より)

この文章を書いた人(Lさん)は非常に正直な人だと思います。「自称」正統派とは、まさに親鸞会のことだからです。
自ら「信前信後の水際」を説くことも無く、自称「正統派」を謳う親鸞会は、顕正新聞上で自らが告白するように「異端」です。

上記の顕正新聞は、私からするとと以下のように読めました。

もはや著者(会長)の勝手な解釈でまとめた歎異抄本(歎異抄をひらく)は通用しなくなった。自称・正統派(親鸞会)は、自分たちの教えていることと、親鸞聖人のご教示との矛盾に直面し、これまでの主張を通せば祖師を否定しなければならないジレンマに陥っている。

一体「これまでの主張を通せば祖師を否定しなければならないジレンマに陥っている」のは、誰のことでしょうか?他ならぬ親鸞会です。会長の説に従うのか、祖師のご教導に従うのか、ハッキリと機関誌に意思表明をしたらどうでしょうか?

「異端」か「正統派」かは、親鸞会が主張することですが、どちらにしろ、はるばる富山まで行って、会員の人が聞きたいことは、「どうすれば救われるのでしょうか」「救われるとはどういうことでしょうか」「信心とはどういうことでしょうか」です。
それに全く答えず、「親鸞会的三願転入」を振りかざし、「善をしなければならない」「十九願は不要というのは間違い」とばかり言って、主にネットからの批判に対して機関誌の中で会員に向けて懸命に釈明するばかりでは、批判の内容も知らされてない多くの参詣者が聞きたい内容や、知りたいことは置き去りにされています。
これでは、誰のために話をしているのかわかりません。「皆々信心決定あれかし」ではなく、「勝他・名聞・利養」のために話をしていると言わざるをえません。