安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「弥陀の善巧方便とは何か、釈迦の善巧方便とは何か、何が真実か、何が方便か全く知らない」のは誰か?(2月20日2000畳座談会の内容より)

  • 追記あり

平成23年2月20日(日)親鸞会館で行われた2000畳座談会の内容について情報を頂きました。有り難うございました。

釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり(高僧和讃74・浄土真宗聖典(註釈版)P592

のご和讃について、以下のような話があったそうです。

弥陀の善巧方便とは何?
アシスタント「弥陀の方便のことです。十九願、二十願です。」
釈迦の善巧方便とは何?
アシスタント「八万四千の法門、十九の願で勧められている善のことです」
一生涯八万四千の法門を説かれたのが釈迦の善行方便。弥陀の十九願を詳しく教え勧められた、これが釈迦の善巧方便。
それによって親鸞、無上の信心を獲得することが出来たのだといわれているご和讃です。
そんな方便なんていらないよという人は、このご和讃を読んだことないんでしょうか?
弥陀の善巧方便とは何か、釈迦の善巧方便とは何か、何が真実か、何が方便か全く知らない。(2011年2月20日2000畳座談会より)

このご和讃は、無上の信心を発起してくだされた、阿弥陀仏、お釈迦様の善巧方便についていわれています。
では、無上の信心は、何によって起きるのかとかんがえますと、十九願ではありません。当然十八願です。本願によって成就した名号のお働きによって無上の信心は起こされます。
十九願によって勧められる善によって起こされるのでもなければ、八万四千の法門によっておこされるものではありません。
ですから、ご和讃に

願力成就の報土には 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃72)

といわれています。
阿弥陀仏の本願力によって成就した浄土は、自力の行ではとても行けないところです。そこで、大乗仏教・小乗仏教の大変な修行をされている聖人も、自らが積み重ねた善根は捨てて、阿弥陀仏の本願に乗ずるのだといわれています。
弥勒菩薩も、自らの行を積み重ねている間は、ただ今浄土に生まれて仏の悟りを開くことはできません。どれだけ積み重ねた善根もみな捨てて、本願力に乗ずる事で、浄土往生できるのだといわれています。

最初のご和讃で「善巧方便によって無上の信心が起こされる」と言った場合の「善巧方便」とは、二河白道の譬えでいうと
弥陀の善巧方便とは、阿弥陀仏の招喚*1の声です。釈迦の善巧方便は、釈迦の発遣*2です。
阿弥陀仏の招喚は、二河白道の譬えでは、

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P224

といわれています。
この内容は、十九願の内容ではありません。私めがけて直ちに来たれ、そのまま来い、われにまかせよと呼び続けられる、南無阿弥陀仏の声ですから、十八願です。

釈迦の発遣は

きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P224

「この道」とは、「白道」のことです。「白道」は、真実信心ですから、第十八願です。この道を行けと勧められるのは、第十八願に早く救われよと勧めておられるということです。

阿弥陀仏も、お釈迦様もともに、「無上の信心」「真実信心」一つを勧めておられるので、これはともに第十八願をすすめられています。第十九願ではありません。「無上の信心」「真実信心」をえさせるために、絶対に必要な善巧方便とは、南無阿弥陀仏です。ですから、お釈迦様も心を一つにして南無阿弥陀仏一つを勧められました。

このように救うためには絶対に必要なものを善巧方便といいます。無上の信心を発起するために、絶対必要な弥陀の善巧方便とは、南無阿弥陀仏の名号です。

では、十九願や八万四千の法門はなにかといえば、仮にもうけられたもので、最後には捨てねばならない方便です。これを権仮方便といいます。

「真仮を知らない」というのは、真実も知らない。何が善巧方便で、何が捨てるべき権仮方便かが分からないということです。
阿弥陀仏が捨てよといわれるものを、捨ててはならないものだと持ち続けるのが、真仮を知らないのであり、真仮の門戸も知らないのです。

阿弥陀仏、お釈迦様が勧められるのは、真実信心であり、教えられたことは第十八願以外にはありません。
阿弥陀仏の仰せを聞くのが仏法を聞くと言うことですから、大悲招喚の声を聞くのです。南無阿弥陀仏を聞くのです。第十九願を聞くのではありません。
第十九願を聞くのが仏法を聞くことというのは「弥陀の善巧方便とは何か、釈迦の善巧方便とは何か、何が真実か、何が方便か全く知らない」ということです。

追記 2011/02/22 20:54

YGMさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

質問です。
「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し」
の『種々に』は、どのように訳せばよいでしょうか?(YGMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110221/1298294745#c1298330426

種々にとは、さまざまにとか、その時その時に応じてという意味になるかと思います。
様々にといっても、無上の信心を発起するのは、南無阿弥陀仏をそのまま聞く一つですから、どうしたら南無阿弥陀仏を聞いてもらえるかというために、いろいろな形で働かれる阿弥陀仏のお働き、お釈迦様のお薦めということになります。

親鸞聖人が「権仮方便」と間違えないようにわざわざ「善巧方便」かかれたことを、二千畳座談会で「権仮方便」として話をしていました。
南無阿弥陀仏を何とか私たちに与えるために、阿弥陀仏やお釈迦様が働かれるのは、いろいろな形をとっておられます。
大変広い意味で言えば、十九願や二十願、八万四千の法門も「権仮方便」といういみでは「方便」に違いありません。しかし、「無上の信心」は何によって起こされるのかと言えば、阿弥陀仏の南無阿弥陀仏であり、お釈迦様の「南無阿弥陀仏を聞け」というお勧め以外にはありません。

「種々に」とはあっても、ここは「善巧方便」なので、十九願、二十願や、八万四千の法門のことではありません。

*1:大悲心をもって浄土へ来れと招きよぶこと。

*2:浄土に往生せよとすすめつかわすこと。