4月3日親鸞会館二千畳座談会参加者から頂いた質問です。
座談会は「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」の部分についての話でした。
親鸞会館の二千畳座談会は、過去1年以上、10数回はこの一念多念証文のお言葉についての話が続いています。今回も「みな浄土の方便の善」の「善」とは何かについての話が、「法施と財施」であり、「法施が大事」との話になり、終了間際「財施は誰にでもしたらいいのではない。それについてはまた続き」といって終わりました。
八万四千の法門で教えられる善は、それほど大事なのでしょうか?(頂いた質問)
親鸞会の運営にとっては質問にあった最初の部分が大事なご文のようです。しかし、座談会で一日かけて話をした内容は質問者や参詣者の往生浄土に関して大事とは言えません。一日かけて結論は、法施をせよ、財施をせよとの話だったようですが、ただ今救われるために法施をせよ、財施をせよと親鸞聖人は教えておられません。
昨日のエントリーに関連していえば、阿弥陀仏が本願を建てられるときに、私を救う手立てとして善は捨てられたものです。
八万四千の法門についての唯信鈔文意のお言葉
「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門*1なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P710・法蔵館の真宗聖典P622.1行目)
上記は、唯信鈔文意の中で親鸞聖人が善導大師のお言葉*2を解説されたものです。
「八万四千の法門は、みな自力の善根なるゆえに、浄土には生まれずと嫌わるる」と教えおられます。嫌われるとは、阿弥陀仏が嫌われるということです。
「善をせよ」が釈迦一代の教え?
では、お釈迦様は、善をせよと一生涯すすめられたのでしょうか?「善をせよ」が釈迦一代の教えなのでしょうか?
上記の唯信鈔文意には続けてこのように書かれています。
「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(同上)
お釈迦様は、「よろづの善のなかより名号をえらびとりて」私に教えられました。諸善ではなく、名号一つをもっぱらに教えられたということです。
「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。(同上)
「選択本願の名号を一向専修なれ」というのが「釈尊の教勅なり」と教えられています。阿弥陀仏が選択された名号の一法を信じなさい、念仏申しなさいがお釈迦様一代の教えです。
阿弥陀仏は、私の浄土往生を願われ、「諸善をしたら助ける」ではなく。南無阿弥陀仏を成就されました。
お釈迦様は、阿弥陀仏の本願一つを教えられたので、いろいろ善はあっても選んで名号一つを教え勧められました。善導大師も親鸞聖人も同様です。
法施が大事との話があったようですが、法施の法とは阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が出てこない話を一日かけてしたとしてもそれは法施ではありません。法施が大事と言いながら、法施をしていないというのが、4月3日の話だと思いました。
ただ今救うと阿弥陀仏が呼びかけられているのが、この南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われて下さい。