安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「そのまま」といわれても理性で堂々巡り(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)「今日こそは、信じよう、称えよう、いただこう、よろこぼう」の心はすべて計らいであると。でも、知識や理性でものごとを判断しているのが自分なのであって、どんなときも、知識や理性を抜きにすることはできないので、結局自分では計らいは捨てることはできないと思います。そうすると、自分では何もできなくなってしまうのですが、何もせずにいても何も変わらないですし、「そのまま素直に聞くだけ」と言われても何が「そのまま」かと思うとまた理性で結局どうどう巡りです。阿弥陀仏はどうして私を助けてくださらないのでしょう。
また、もし助からないまま死んでしまった場合、阿弥陀仏を疑っている上、念仏も相続して称えることもできない私は化土にもいかれないで六道を廻ることになるのでしょうか。(メンデルさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110309/1299619885#c

阿弥陀仏はどうして助けてくださらないのかと言えば、阿弥陀仏のお働きを自分で計らっているからです。阿弥陀仏は、ただ今メンデルさんを助けようと働いておられます。

理性を抜きにして考えることは、仰るとおり出来ません。自分では捨てることが出来ないので、阿弥陀仏が計らいを破ってくださり、取ってくださるのです。
阿弥陀仏が取り上げて捨て去って下さる計らいを、自分で「そのまま」になって捨てようとしているのが計らいです。

「そのまま」とは、「そのままになる」ことでも、「そのままになろうとする」ことでもありません。自分の手を加えないことです。「そのままになろう」という手を加えないことです。
反対から言えば、常に「そのままになろう」と常に手を加え続けているのが私です。「そのままになろう」の堂々巡りは続きますが、どこまでいっても終わりはありません。

願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 
大小聖人*1みなながら 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃72・浄土真宗聖典(註釈版)

どれだけ理性や知恵を巡らしても、阿弥陀仏の浄土は「願力成就の報土」ですから、「自力の心行いたらねば」といわれます。阿弥陀仏の願力に依らねば往生できません。龍樹菩薩のような方であっても、自力の心行を捨てて、「如来の弘誓に乗ず」といわれています。

自分の力でどれだけ理性を巡らしても浄土往生は出来ないからこそ、阿弥陀
仏の本願の仰せを聞く以外にありません。

もし助からないまま死んだらどうなるか?については、間違いないと言えるのは、浄土往生はできないということです。
では、どこへ行くのかということについては、一人一人のの行為によって変わるので、私には分かりません。
化土ならば、地獄よりは安心とか、人間界ならまだいいというものではありません。化土も阿弥陀仏が願われている世界ではありませんし、六道はどこであっても生死の世界であることにかわりはありません。地獄に堕ちるなら頑張ろうと思う心もあるかもしれませんが、いづれにしろ、浄土往生できないことが阿弥陀仏にとっては一大事です。

必ずただ今阿弥陀仏は救ってくださいますので、ただ今阿弥陀仏に救われてください。

*1:大小聖人・・「大乗の聖人、小乗の聖人」(異本左訓)