tomida makotoさんからは、複数コメントを頂いております。順番にお尋ねされた箇所はエントリーに書いていきます。基本的に一日一エントリーになるので、その点はご了承下さい。また、文章は短く書きますのでよろしくお願いします。
tomida makoto 2015/06/28 16:17
信心決定したら、本当の自分の相が知らされるのではないでしょうか?例えば、自分は極楽行くしかないような善人であると知らされると言ったようなことは無いのでしょうか?
tomida makoto 2015/06/28 16:20
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20150612/1434095479#c1435475838
遊びの様に思われるかもですが・・・マジですから
基本的に文章そのままでいいますと、「信心決定したら」→「本当の自分の相が知らされる」ということは、「信心決定」=「本当の自分の相が知らされる」と違います。
前者は、信心決定した結果こういうことが知らされるようになるということであり、後者は「信心」の定義を「本当の自分の相が知らされること」としています。
では、親鸞聖人は、「信心」とはどういう意味だと定義をされているのかと言えば、以下のご文になります。
「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。 (一念多念証文
http://goo.gl/rmq7lh
浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版
P677)
「信心」=「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」といわれています。自分が善人と知らされるとも、悪人と知らされるとも言われていません。
「信心決定したらこうなる」と「信心決定とはこういうことだ」というのは違います。
そこで、コメントに書かれた「自分は極楽行くしかないような善人であると知らされる」について書きます。親鸞聖人は、極楽往生する人は「善人」だとは言われていません。あくまで、阿弥陀仏の本願に聞いて疑い無い人が浄土往生するのであって、「善人だから浄土往生できる」というものではありません。
あくまで、「阿弥陀仏の本願に乗じた」人が浄土に往生するのだと言われています。
(72)
願力成就の報土には
自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら
如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃)
ここで「大小聖人」といわれているのは「大乗の聖人、小乗の聖人」のことで、修行に励んである程度さとりをひらいた「善人」です。それらの人でも、阿弥陀仏の本願によって成就した浄土には、「善人の心や修行によって往生できない」と言われています。そこでそれらの人は「如来の弘誓に乗ずなり」と言われています。善人だから参れる浄土ではなく、阿弥陀仏の本願をたのむ人が浄土往生するのです。
ですから、浄土往生がさだまったからと言って「自分は極楽行くしかないような善人であると知らされる」と言ったようなことはありません。