yさん、でんさんからコメントを頂きました。有り難うございました。
『そのまま、そのまま…』
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110310/1299729731#c
どうしたらいいのか、また考えてしまっています。
それがいけないんだ…『そのまま…』とまた考えています。(yさんのコメント)
「そのまま」は「何もしない」ではないんですよね。
本
文中の言葉でいえば、「仏の本願の仰せを聞く」ですよね。(でんさんのコメント)
「そのまま」とは、でんさんが言われるように「何もしない」ことではありません。正確に言うと「何もしないように心がける」とか「何もしないことによって救われる」ことではありません。阿弥陀仏の本願の仰せを聞くことです。
「そのまま」が難しいと考えてしまう理由について、考えてみました。
阿弥陀仏に向き合ってみても、面接試験を受けるような心になってしまうからではないかと思います。
「そのまま」と聞いても「私」が自覚する「私」には、いろいろあります。「真剣になる私」なのか「真剣になれない私」なのか、また「よい私」なのか「悪い私」なのか、などなどいろいろ「私」といっても、いろいろな「私」があります。
そのなかのどの「私」をそのまま救って下さるのだろうか考え、手元のカードから一枚「阿弥陀仏のお目当ての私」を出そうとすると考えます。
面接試験を受ける人は、「どうしたら合格(または内定)をもらえるだろうか」と、面接官に対して「いろいろな私」の中から、「面接官の求める私」を出し、「面接官の求めていない私」は出さないように心がけます。
また面接官から「楽にしてください」といわれても、自宅にいるようなリラックスはなかなかできません。「自然にしてください」といわれて「自然にふるまおう」とすると「不自然」になります。
これは、面接試験では「落とされるかも」という前提から「いかに自分を高く評価してもらえるか」という考えからおこることです。そして、面接官と駆け引きをする心からおこるです。
阿弥陀仏と私はそのような面接官と面接を受ける人のような関係ではありません。「どの私」だろうと、阿弥陀仏は「そのまま救う」と誓われている仏です。駆け引きはいりません。
また、「どの私」であっても自力で生死を離れられないのは同じです。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれてみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(浄土真宗聖典(註釈版)P834)
「いづれの行にても生死をはなるることあるべかざる」のが私です、それを哀れに思われて本願を建てられたのですから、面接のように落とされると言うことは最初から有りません。どんな私であってもそのまま救うと誓われているのが阿弥陀仏です。
「他力をたのみたてまつる」のが「往生の正因」とありますように、必ず救うという阿弥陀仏にうちまかせて、ただ今救われてください。