前回のエントリーの補足です。
阿弥陀如来の救いはただ今の救いと聞きますが、どうも自分はまだそこまで行っていないように思いますが、こういう考え方は間違いでしょうか?(頂いた質問)
自分はそこまで行っていないという考えは、「救われるに値する人間になっていない」という心境だと思います。
これは、教えの問題よりも、救われていないことを自分の中で合理化していった結果だと思います。
私が仏法を聞き始めた頃は、すぐにでも阿弥陀仏に救われるものだと考えていました。しかし、何回足を運んで行っても「今日もダメだった」ということを繰り返していく内に、お尋ねのような心境になっていました。
何回受けても合格しない試験か、何社回っても内定が出ない就職活動の学生のような心境でした。*1
はてな匿名ダイアリーにあったエントリーから引用します。
頭の中ではいつか内定にたどり着けるだろうと考えることはできるが、面接に落ち続けることによるインパクトの前ではそのような考えはあまり意味がない。
http://anond.hatelabo.jp/20110304145631
阿弥陀仏の救いは、受験でも、就職面接でもお見合いでもありません。仏法を聞く場も同様です。ただ今救う本願ですから、「こうなってから」とか、「これは試験と同じなのだ」といように考えるのは間違えです。
往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす*2如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。(執持鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P860.1行目)
自分に救われる値があるかどうかとか、どうなったら救われるかということは「凡夫のはからふべきことにあらず」といわれています。
「ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」ことです。
阿弥陀如来にまかせよといわれるのは、阿弥陀如来は「往生ほどの一大事はまかせよ」と願われているからです。
「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり」と書かれてありますように、まかせるべきは阿弥陀如来の誓いです。「自分はまだまだ」という判断ではありません。
必ずただ今救われます。
*2:かへすがへす・・くれぐれも、よくよく