歎異抄第2の「ただ念仏して」というのは、口で「南無阿弥陀仏」と称えることなのか 心の中で称えることなのか 受け取ることなのかが曖昧でよく分かりません。(頂いた質問)
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第2条)
この「ただ念仏して」については、私が実際にしている行いそのものとしては口で称えることです。南無阿弥陀仏一つが往生の行であると疑い無く、ただ一つ念仏だけを称えることをいいます。
この歎異抄の部分は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて」となっています。
法然上人が親鸞聖人に「ただ念仏して弥陀に助けて頂きましょう」と勧められたお言葉です。
この「ただ」は、唯一という意味です。
「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。(唯信鈔文意)
阿弥陀仏が私を往生させる行として選び取られたのが称名念仏(南無阿弥陀仏)です。行から言えば、南無阿弥陀仏を称える一つという言い方ができますが、しかし、念仏一つが往生の行であるとなるには、それ以外の行に心が向いていてはなりません。
本願を疑う心(二心)があっては、念仏一つが往生の行(ただ念仏して)とはなりません。ですから、「ただ念仏して」と念仏一つを称えられるには信心が必ずともなった上での念仏ということになります。
念仏そのものは、本来は阿弥陀仏の行であり、お働きであって、私の行いではありません。本願を信じ、南無阿弥陀仏一つで救っていただくという念仏です。私がどう称えたかということと、お働きそのものは別々に考えることができるものではありません。