安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「月へ行く切符が欲しいのですが」→「飛行機のファーストクラスに乗りたいでしょ」→「?」

19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ?????: 飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~を読んで思ったことを書きます。

(2)の切符、あったらあっただけ良い
 ↓
月(無量光明土)に行くのにどれだけあっても邪魔にならない
 ↓
邪魔になるなら弥陀が勧められるはずないし、
釈迦が一代かけて(善の勧めを)説かれるはずがない。(19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ?????: 飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~

このあたりの話として、こんなやりとりがあったそうです。

(2)の切符何万枚持っていても月へは行けないということです。しかし、月へは行けないが、そんな切符要らないか?要らない人ある?たくさん欲しいでしょ。
普通の寝台車に乗れる切符よりもっといい切符が欲しいでしょ。
アシスタント「飛行機でもエコノミーよりファーストクラスがいいです。」
そうでしょ。当然なんです。だから、この善をやらないと良い結果はきませんよ。(2011年1月23日2000畳座談会参加者より頂いた情報)

親鸞聖人の教えを聞きたくて集まってきた人に対して「名聞、利養が欲しいでしょ?」「たくさん欲しいでしょ」「当然なんです」といっているのは、聞きに来た人に失礼な話です。
切符の譬えをそのまま使うと、月に行きたい人が「月へ行く切符が欲しいのですが、どうやったら手に入るでしょうか?」とある人に尋ねると「飛行機のファーストクラスに乗りたいでしょ」と答えてきたようなものです。

阿弥陀仏、お釈迦様が教えを説かれた目的は、この世を楽に過ごすためではありません。

諸仏世に出でて種々の方便をもつて衆生を勧化したまふは、ただ悪を制し福を修して、人天の楽を受けしめんと欲するにはあらざればなり。
人天の楽はなほ電光のごとし。 須臾にすなはち捨てて、還りて三悪に入りて長時に苦を受く。 この因縁のために、ただ勧めてすなはち浄土に生ずることを求めて無上菩提に向かはしめたまふ。(観経疏・定善義

仏様の教えは「ただ悪を制し福を修して、人天の楽を受け」させるための教えではありません。「ただ勧めてすなはち浄土に生ずる」ための教えです。
なぜなら、「善をやらねばいい結果は来ませんよ」といくら力説したところで、「人天の楽はなほ電光のごとし。 須臾にすなはち捨てて」死んでいかねばならない「いい結果」だからです。

善をするかしないかという話は、「真宗の衰退の原因(?)」や「なぜシアワセになれないのか」という場面で関係あるかもしれませんが、「どうしたら浄土往生できるか」という場では関係がない話です。

この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻)

「この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる」といわれていますように、往生と「虚仮雑毒の善」は関係がありません。
利他真実の信心によって往生を遂げさせていただくのですから、阿弥陀仏の本願を、疑い無く聞く一つです。