安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏で助かる」について(ツリーさんのコメントより)

ツリーさんよりコメントを頂き有り難うございました。

しからば、「念仏で助かる」と言えば良い。どこそこの会長がどうの、だれそれがどうの、関係ない。
「念仏で助かる」と、言い切ればよいでは、ないかと。
「念仏で助かる」当たり前の事を言えばよい。(ツリーさんのコメント)

ツリーさんの仰ることもごもっともです。
法然上人は念仏為本と教えられていますし、親鸞聖人もご和讃に

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ(高僧和讃71・註釈版聖典P569

といわれています。
万行諸善でさとりをひらく仮門に対して、念仏成仏が真宗であると教えておられます。

同時に親鸞聖人は、信心往生、信心正因と教えていかれました。

「念仏で助かる」で間違いはないのですが、それを聞いた人の中には一度も念仏称えたこと無い人は浄土往生出来ないのかと思う人や、反対に口で称えさえすれば助かると思う人も出てきます。事実、蓮如上人の時代には、信心ではなく口で称えることによって助かるといういわゆる「無信単称」「口称正因」が流行していました。
そこで蓮如上人は御文章の中で繰り返し、「信心正因 称名報恩」を強調して行かれました。
阿弥陀仏の浄土に往生する因はあくまでも信心一つであって、称えた念仏の多い少ないは関係有りません。本願には「乃至十念」とあるように、念仏の数は限定されていません。あくまでも信心正因です。

涅槃の真因はただ信心をもつてす。(教行信証信巻・註釈版聖典P229)

といわれている通りです。

「念仏為本」あるいは「念仏成仏」でいわれる「念仏」も、「信心」も、その体は南無阿弥陀仏ですから、念仏往生即信心往生となります、念仏往生といっても信心往生といっても意味が変わるものでは有りません。
私が口で称えた念仏の功徳によって救われるのではありません。私が称える念仏は、往生の因ではないので、称名報恩と言われます。
信心正因 称名報恩について、歎異抄には以下のように書かれています。

そのゆゑは、弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。(歎異抄第14条・註釈版聖典P845

念仏で助かるでも問題有りませんが、誤解する人が過去にあったことを考えると、親鸞聖人の教えは、信心正因ですから、「信心のさだまるとき、往生がさだまる」とか「南無阿弥陀仏で助かる」の方がよいのではないかと思います。名号願力のひとりばたらきで助かります。その名号願力を信受する一念に私の救いが定まります。