安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

称名そのままが念仏である理由(でんさんのコメント)

称名そのままが念仏なのですか。
身に合掌、口に称名、意に念仏と聞いたことがありましたが、誤りかもしれません。
念じる事がよく解らない私にでも、称名で念仏できるように御育て頂けるのですね。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101207/1291698038#c1291766572

称名そのままが念仏ということについて、補足してエントリーをします。
でんさんの以前のコメントにあるように「念仏」といえば、仏を念ずることですから、心を静めて、阿弥陀仏を念じなければできない行為のように思います。
しかし、いざ臨終となり、またいろいろな苦しみに責められている人は、心を平静に保ち阿弥陀仏を念ずることができません。
観無量寿経に説かれている下品下生がその姿です。

の人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。(観無量寿経・註釈版聖典P115

この人というのは、下品下生の五逆罪・十悪を造ってきた人の事です。その人が臨終には苦しみに責められて、心を静めて仏を念ずることができません。そこで善知識が、「もし心を静めて仏を念ずることができないならば、南無阿弥陀仏と称えなさい」と勧められます。

これについて、善導大師は以下のように解説されています。

六には善友苦しみて失念すと知りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす。(観無量寿経疏散善義・註釈版聖典七祖篇P495

これを「教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす」ということで「転教口称(てんぎょうくしょう)」といわれます。
教えを聞いて納得して、心を静めることができない人には、ただ南無阿弥陀仏と称えよと勧められるのは、どういうことかについて、親鸞聖人は唯信鈔文意に解説されています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。(尊号真像銘文・註釈版聖典P716

苦しみに責められて、心を鎮めて阿弥陀仏を念じることができない者には、ただ口に南無阿弥陀仏と称えよと勧められています。それは、口に称えるという行為に意味があるのではなく、称えられるところの南無阿弥陀仏に私を往生させる力があり、その南無阿弥陀仏を疑いなく称える者を往生させるという本願をあらわされたお言葉です。
自分が、心を静めて念じられるとか、念じられないとかいうことを問題にするのとは、南無阿弥陀仏そのものに往生させる働きがあると思えずに、自分の心の動静を問題にしているのです。
そういった、私の心の有りようと関係なく、救う働きは南無阿弥陀仏の中にあります。心を問題にして、念じられないことを気にするのではなく、ただ南無阿弥陀仏が往生させるお働きがあるのだよと教えられたのが、上記の「こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり」です。

コメントの「意に念仏」というのは、意に南無阿弥陀仏であり、信心のことだと思います。

念じられる念じられないとかいう私の心の手助けが必要ないのが、南無阿弥陀仏なのです。その南無阿弥陀仏が救って下さいますので、ただ今南無阿弥陀仏に救われて下さい。