安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

称名念仏は「私の行」ではなくて「阿弥陀仏の行」である・・・ということは、未信の人の称名念仏は「阿弥陀仏のお育て」であると理解すればよろしいですか?(もかなさんのコメント)

もかな 2013/09/30 18:23
(略)
「称名報恩」は「お礼」ではなくて「阿弥陀仏に対する感謝とそのご恩を思う心」なのですね。

称名念仏は「私の行」ではなくて「阿弥陀仏の行」である・・・ということは、未信の人の称名念仏は「阿弥陀仏のお育て」であると理解すればよろしいですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130930/1380484232#c1380533021

阿弥陀仏のお育てということで間違いないです。

なぜなら、阿弥陀仏の本願の内容は、歎異抄の言葉を借りれば「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」だからです。阿弥陀仏が誓われた立場からいえば、私に対して「本願を信じさせ、念仏を申させ、仏にしてみせる」ということになります。その本願は成就して、南無阿弥陀仏の六字名号と現在なられています。その意味で言い換えると、「南無阿弥陀仏の名号を信じさせ、称えさせ、浄土に往生させ仏にする」と誓われたものです。


信不信を問わず、私が念仏するのは、すべて阿弥陀仏の「念仏を申させる」のお働きに違いありません。ただ、その念仏を「南無阿弥陀仏が私を救うお働き」と聞き受けるか、「自分で称えているものであり、この念仏が往生の何かの役に立つのかも」と思うかによって、念仏に他力か自力かという違いが現れます。南無阿弥陀仏そのものは、阿弥陀仏の行であり、私を往生させるお働きであると親鸞聖人は教えられています。それを、「自分の行」のように思っています。それを親鸞聖人は厳しく戒めておられます。

まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。(教行信証化身土巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P412)

http://goo.gl/8rVVc

念仏一行をもっぱら往生の行として称えている人であっても、そのような自力の心(雑心)の人は大慶喜心を獲られないといわれています。そのことを善導大師は、「そんな人は阿弥陀仏のご恩を感じることもないし、念仏を申していても心の中にこれだけ念仏称えているんだぞと思い上がって他人を見下しているのだといわれています。


考えて見れば、南無阿弥陀仏と念仏申すこと自体が阿弥陀仏のお計らいである以上は、それを「自分の手柄」のように思って他人を見下すとういうのはおかしな話です。阿弥陀仏の行である南無阿弥陀仏が、私の口から出ているということは決して決して当たり前のことではありません。とても不思議なことなのです。その不思議なことを不思議だと思わないところを「心の軽慢を生ず」と善導大師は言われています。


念仏しない私に念仏させるお働きですが、単にそれを有り難がればいいというものではありません。「本願を信じ念仏を申さば仏になる」と南無阿弥陀仏を聞いてください。ただ今救われるとはそのことです。