安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

念仏は何を念ずるのですか?(でんさんのコメント)

皆さんは分かっておられる様ですが、念仏がそもそも分からないのです。
念仏とは念ずる事の様ですが、何を念ずるのですか。
また、合掌や正座にも意味がございますか。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101205/1291541269#c1291672626

念仏は、仏を念ずることです。
合掌は、主に仏教の世界における礼儀の1つです。正座は、日本における礼儀の1つです。
また、合掌は、右手は仏、左手は衆生をあらわし、両手を合わせることで仏と一体となることや、仏への帰依をあらわします。また人に対しては、尊敬の心をあらわす礼儀となっています。

念仏について、補足して書きます。
念仏は、註釈版聖典の巻末註には以下のように書かれています。

仏を念ずること。
真如を念ずる実相の念仏、
仏のすがたを心に思い観る観想の念仏、
仏像を観ずる観像の念仏、
仏の名号(みょうごう)をとなえる称名念仏
などがあり、聖道(しょうどう)門では、実相念仏を最勝とし、称名念仏を最劣とみる。しかし浄土門では、称名は阿弥陀仏の本願において選び取られた決定往生の行であり、極善最上の法であるとする。称名 しょうみょう。註釈版聖典巻末註P1525

でんさんがコメントに書かれているように、念仏とは、仏を念ずることです。
それにも、上記に紹介した「実装の念仏」「観想の念仏」「観像の念仏」「称名念仏」と4種類があります。
浄土真宗で念仏といえば、「称名念仏」のことをいわれます。
その念仏は、阿弥陀仏が本願で選び取られた往生の業であり、私を往生させる働きであると、親鸞聖人は、教行信証行巻に以下のように、引文されています。

『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、
「南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす」と。(教行信証行巻・註釈版聖典P185)

法然上人の選択本願念仏集に書かれたことを、引文されて、南無阿弥陀仏以外に往生の業はないといわれています。
しかし、この念仏は、私の行ではなくて、阿弥陀仏が本願で選び取られた行ですから、阿弥陀仏の行です。浄土真宗で、「お念仏」と「お」の字をつけるのは、念仏そのものが阿弥陀仏の行であるからです。自分の行に「お」は普通つけません。

そこで、称名には、阿弥陀仏が私に差し向けられた行であり、私を救う働きがあることを、親鸞聖人は行巻に仰っています。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(註釈版聖典P141

阿弥陀仏が差し向けて下さるものに「大行」と「大信」があります。
そのうち「大行」とは、「南無阿弥陀仏」の称名念仏です。この大行(称名念仏)は、阿弥陀如来が完成されたあらゆる徳がおさまっています。一念で私を救う働きがあるものですと言われています。

念仏は仏を念ずることですが、浄土真宗では称名念仏のことで、南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の名号を称えることです。
しかし、南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の行であり、私の行ではありません。
南無阿弥陀仏は、私を往生させるための、阿弥陀仏の行が収まっており、私に差し向けられているものです。

一見すると、私が口で称えているだけではないかと思われるかも知れませんが、口で称えることがそのまま仏を念じていることになります。
しかも、その口で称えること自体も、阿弥陀仏によって称えさせられていることです。
阿弥陀仏は本願で、本願を信じさせ、念仏を称えさせ、往生させると誓われています。

信ずることも、念ずることもないこの私に向かって、本願を建てられたのですから、何を念じるかわからないものに、南無阿弥陀仏と呼びかけて下さっています。
常によびかけられる南無阿弥陀仏によって、この私が本願を信じ念仏する身に救って下さるのです。

合掌は、仏と衆生が1つとなる、帰依のすがたと書きましたが、真宗でいえば帰命のすがたです。
それについて、真宗ではこういう歌があります。
「右ほとけ 左われとぞ 合わす掌の 中ぞゆかしき 南無の一声」

阿弥陀仏が差し向けて下さる、南無阿弥陀仏の呼びかけに、本願を信じ、合掌し南無阿弥陀仏と称えさせていただきたいとおもいます。