安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

雲をつかむような感じです(達男さんのコメント)

達男さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
また、黒ちゃんさん初めてコメントを頂きました。こちらこそよろしくお願いいたします。

(中略)
努力してそういう身になれるのならば、努力しがいがあるのですが、安心問答を読んでてても「本願の通り、ただいま救われますから、救われてください」では、雲をつかむような感じでどうすることもできないというのが本音です。
指をくわえてポツンと立ってるような状況です。
これして、あれしてこうやれば救われますよとか、こうしたら速いですよとかなら、根性で少しは頑張るのですが。
毎日孤独で空しい淋しい人生を過ごしてる私に励みになるお話をお願いします。
阿弥陀仏がいちばん私を励まそうとされているのでしょうけど、それが素直にハイと受けとれなくて困っております。(達男さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101106/1289041346#c1289140348

達夫さんのコメントに対して、黒ちゃんさん、YGMさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

私も、達男さんの言われることはよくわかります。何か「こうしたらいいぞ」という明確な方法論があれば「そうなのか、それをしたら助かるのか」と頑張れそうな気がします。しかし、そういう方法論は阿弥陀仏の救いにはありません。

しかし、なぜそのような方法論を阿弥陀仏は設けられなかったのかというところが、大事なところです。そこが仏願の生起本末といわれるところです。以前達男さんのコメントに対するエントリー*1で引用した唯信鈔のお言葉の続きの部分です。
法蔵菩薩がどのような浄土を建立し、そこへどうやって私を生まれさせようかと考えられたところの説明です。

国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。(唯信鈔・註釈版聖典P1340)

どんなに素晴らしいお浄土があっても、私が往くことができなければ、大慈悲の本願の御心に背くことになります。そこで、往生極楽の条件を定めようとされたときに、どんな行をもってきてもどれも易しいものはありません。「親孝行をしたものは浄土に往生出来る」とすれば、親不孝の者は生まれることができません。お経を読むことを条件にすれば、文字が読めない者はとても浄土に往くことができません。
布施や戒律を条件にすれば、施す心の無いものや、戒律を守れない者は、本願に洩れてしまいます。腹を立てないことや、精進を条件にすれば、腹を立てる人や、怠け者は、本願から捨てられてしまいます。その他の行についても、同じ事です。

私は、達男さんがどういう方かはしりません。ただ、こうしてブログにコメントをされるということは、文字も読め、ある程度ネットの知識もある方だと思います。
そんな達男さんでしたら、「それならできる」という行はあるかもしれませんが、達男さんにとって「それはできない」という行もあると思います。
達男さんにできない行が、もし往生浄土の条件や方法となっていたら、達男さんは浄土に往生出来ないということになってしまいます。
頑張ることができるのは「その行ならできる」という場合に限ります。なにかの方法をもうけられなかったのは、衆生をもらさず浄土往生させる願だからです。

さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。(唯信鈔・註釈版聖典P1341)

第18願に念仏往生の願を起こされて、念仏するものを浄土往生させると誓われました。本願を信じ念仏を申すということは、周利槃特(しゅりはんどく)*2もできることです。南無阿弥陀仏と称えるには、どんな人もそれに洩れることはありません。
ただ自力の心をひるがえして、本願を疑いなく聞いて、念仏申すだけです。

人生は孤独で寂しいところだと思われているとのことですが、常にそのまま救うと、ただ今の私に呼びかけられてるのが南無阿弥陀仏です。本願に洩れることがないために、方法論がないのです。そのまま救うという本願を、そのまま聞いて下さい。
雲をつかむように思うのも、素直になってなにかを掴むのが信心と思われているからだと思いますが、素直になって聞くのではありません。強い阿弥陀仏の仰せを聞けば、あれこれ計らう必要はなくなるということです。仰せを聞いたのが信心です。