安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。」(求道者Kさんのコメントより)

しばらくエントリーができず申し訳ございませんでした。また、その間コメント欄にコメントされた方々に御礼を申し上げます。
コメント欄に、求道者Kさんが続けて書かれていることもありますが、最初に書かれたコメントの文面からエントリーを書きます。

このような形で結果的に死後は「おまかせ」、現生は「いただき」のような境地に至ってる私ですが、入り口こそ「お念仏のいわれ」でありましたが、出口としては「縁起の道理」であり、そこに南無阿弥陀仏は必要ではないのではないか?と感じました。必要であったとしてもそれは「南無阿弥陀仏のいわれ」であり、「南無阿弥陀仏」ではありません。そうなるとこの救いには「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」という条件が必要となります。「南無阿弥陀仏」と称えるだけではこのような考えに至らなかったからです。(しかし私としてはきっかけは南無阿弥陀仏だったので感謝の意でお念仏は申します。他の人に絶対にコレとすすめるには至っておりません。)(求道者Kさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

「南無阿弥陀仏のいわれを理解する」ことが条件になるのではないでしょうか?とのことですが、大ざっぱにいえば条件になります。なぜなら、念仏一声も称えない人を、本願のほの字も知らない人まで浄土に往生させるという本願ではありませんから、「無条件の救い」という言葉の前提は、なんらかの形で念仏申したり、法を聞くご縁にあった人のことです。
しかし、そのように念仏するようになったのも、法を聞くご縁に恵まれたのも信心を獲るのも阿弥陀仏の回向のお働きであり、私が何かをしたからそうなったのではないと、親鸞聖人はいわれています。

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弥陀の回向成就して
 往相・還相ふたつなり
 これらの回向によりてこそ
 心行ともにえしむなれ(高僧和讃)

そこで、法を聞くようなご縁にあった人に、このブログ上でいろいろと信心についてお尋ねを頂きます。私のブログは、「何をしたら助かるのでしょうか?」という方には、「何かをしたら助かるという条件はありません」と書いてきました。「まだまだ時間がかかりそう」という方には「今救われて下さい」と書いてきました。「為すことがないなら待っていればいいのですか?」と問われれば、「待つのではなく、今聞いて下さい」と書いてきました。

このように、人に対して何とか救われて下さいと勧める立場でいうと、「努力が必要で自分にはまだその努力が必要」という人には「努力せよ」とはいいません。「待てばいい」という人には、「待ってはいけません聞いて下さい」といいます。それは相手がこれが条件だと思い込んでいることを否定してるだけです。その意味で「無条件の救い」が阿弥陀仏の救いです。勧めるのは、一言で言えば南無阿弥陀仏となります。

また、南無阿弥陀仏と南無阿弥陀仏のいわれは分けることはできないものです。なぜなら南無阿弥陀仏のいわれの結果、南無阿弥陀仏となられているからで、南無阿弥陀仏のいわれと南無阿弥陀仏は別の二つのことではありません。
念仏を申す人は、「浄土往生の法」とか「阿弥陀仏の喚び声」などなどいい方はいろいろありますが、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて念仏されているからです。

一体、南無阿弥陀仏とは何なのでしょうか?また、往生浄土について私は「自然」のことと思っていますが、「では、無宗教(波阿弥陀仏と称えない人)やキリスト教(他宗)の人はどうなのか?極楽浄土はそこに生まれたいと願う人が皆もらさず生まれる処であり、極楽に強制連行されるわけではない」と言う人もいます。(求道者Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20161125/1480076105#c1480120871

そこで南無阿弥陀仏とは何かについてコメント欄の他の方が安心決定鈔を紹介しておられましたので、そこから紹介します。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。 (安心決定鈔)

https://goo.gl/5j2j4W

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の仏のさとりの全体です。南無阿弥陀仏を離れて、阿弥陀仏の正覚はありません。だから、全ての人を浄土往生させるという本願が成就して阿弥陀仏となられたので、私たちの往生の体でもあります。私たちの往生の体であるから、阿弥陀仏の願と行がすべて私に具わるということです。

「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。(求道者Kさんのコメント)

これについて、南無阿弥陀仏は救いへの感謝ではありません。
救いの条件については、前述しましたが大きくいえば念仏申す、法を聞くご縁にあうことです。その意味で、今キリスト教を信じ、真宗の存在そのものを知らない人が突然浄土往生する身になるような無条件の救いではありません。先にも書きましたが、法を聞いたり念仏申すも阿弥陀仏のお働きによるものですから、私が○○したから法を聞くご縁にあえたということは本来はありません。その意味では私の側で「○○したら助かる」という条件はありません。ただ、それは救われてみれば頷けることで、何も知らない人が聞いて納得できるものではありません。

ですから、過去から多くの先達は、法を聞いて下さい、念仏申して下さいと有縁の人に勧めてきました。法を聞かれるようになった、念仏申されるようになってからは、また南無阿弥陀仏を疑い無く聞く以外になにもないのが真宗の救いです。それ以外は条件はありません。コメントの文脈上「救いを実感する」というのが、信を獲るということだと理解して上記のように書きました。