安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

化土往生はありえないでしょうか?(おさびしやまさんのコメント)

おさびしやまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。何でも思ったことはお尋ね下さい。

「おさびしやまさんがどういう方かは、分かりませんが、観無量寿経に説かれる諸行を実践して浄土往生を願ったり、阿弥陀経に説かれる一心不乱の自力称名念仏を実践して浄土往生をしようと思っている方ではないと思います。」とありますが、そのとおりです。18願で救われたいと思っているものです。ということは私は化土往生はありえないということでよろしいでしょうか?(おさびしやまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101105/1288903026#c1288968003

Rudelさん、幹部さんからもコメントを頂きました。有り難うございました。

化土往生*1については、お聖教の上からいえばありえないことではありません。しかし、親鸞聖人は、化土往生を勧められたことはありません。報土往生一つをお勧めになられました。

詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。(御消息第26通・末灯鈔第12通・註釈版聖典P785

本願他力を疑いなく信ずる者は、どうして化土往生にとどまることがあるだろうかとおっしゃっています。その後に、親鸞聖人ご自身が寿命が尽きたなら、浄土往生しているから、そこで待っているぞと、この御消息を出された相手に書かれています。

決して、化土往生を勧められたのではありません。化土往生についていわれているところは、決してそちらにいってはならないぞという意味で教えられています。勧めておられるのは報土往生です。

おさびしやまさんも、阿弥陀仏の第18願で救われたいと仰っていますが、阿弥陀仏は、ただ今報土往生定まる身に救うと呼び続けておられます。第18願には、報土往生させることができなかったときのために、化土も用意したとは誓われていません。
ただ今往生定まる身に救う本願ですから、平生業成が阿弥陀仏の本願です。


化土往生する人は、お聖教の上からいえばおられますが、それは阿弥陀仏が第18願に願われたことではありません。

仮に私(山も山)のこととして、化土往生を考えてみますと、化土往生は臨終来迎です。臨終をどんな心で迎えるかということは私は分かりません。
そのため、覚如上人は執持鈔第5条で平生業成について書かれたところで、以下のように教えられています。

かくのごときの死期にいたりて、一旦の妄心をおこさんほか、いかでか凡夫のならひ、名号称念の正念もおこり、往生浄土の願心もあらんや。
平生のとき期するところの約束、もしたがはば、往生ののぞみむなしかるべし。しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。(執持鈔第5条・註釈版聖典P865

私自身のこととして考えますと、刀で斬り殺されたり、火事で焼け死ぬようことがあった場合、臨終にどんな恐ろしいことを思うか分かりませんし、定まった心で念仏を称えることや、往生浄土を願う殊勝な心が起こすことはできないと思います。往生浄土を願う心がなければ臨終来迎による化土往生はありません。
しかし、平生に直ちに来たれと願い続けておられる本願がありますので、平生の一念に報土往生できるかできなかは定まるのです。平生に、往生出来るかどうかという疑いの心が晴れないなら、報土往生はできません。

阿弥陀仏は、18願で報土往生を願われています。化土往生について親鸞聖人が仰るのは、化土ではなく報土往生しなさいと勧めるためにいわれています。
阿弥陀仏が18願で願っておられない、親鸞聖人も勧められていない化土往生について、できるかどうかを考えるより、阿弥陀仏の願われる通りに平生の一念に報土往生する身に救われて下さい。