安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏は本願に報いてあらわれた報仏(前回の補足)

前回のエントリー(「仏さまなんていない」という人にどう話をしたらよいでしょうか?(畑さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))の補足です。
阿弥陀仏という仏様は、私を助けるために名告られた仏様です。そのため、阿弥陀仏のことを善導大師は「報仏」といわれ、親鸞聖人も教行信証に引文されています。

西方の安楽阿弥陀仏は、これ報仏報土なり(教行信証真仏土巻より・善導大師「玄義分」引文・浄土真宗聖典(註釈版)P364/法蔵館の真宗聖典P429

報仏とは、報身の仏と言うことです。報身の「報」は酬報のことです。酬報とは、菩薩の位の時に(因位)建てた願と、その願に応じて行った修行に報いたということです。因願酬報といいます。その菩薩の時に建てた願と行に報いて現れた仏を報身といいます。
阿弥陀仏は、法蔵菩薩が私を何とかして助けたいと五劫思惟の願を建てられ、兆載永劫の行をされた結果、願行に報いて現れた仏様です。
そのことを、上記の文章のあとにこういわれています。

いますでに成仏したまへり、すなはちこれ酬因の身*1なり。(同上)

ですから「阿弥陀仏」は、私を救う仏様であって、私と無関係な仏様ではありません。私がなにかしなければ近づけない仏様でもありません。私が何かしない限り救って下さらない仏様でもありません。

往生のためには何も出来るものを持ち合わせていない私を助けるための本願を建てられて、行をされた結果として阿弥陀仏となられました。もし、阿弥陀仏が何かをしないと助けてくれない仏様だという人がいたら、もとの本願が違うということになります。

設計図が右とあるのに、できあがったものが左ということはありません。そのまま救う本願だから、そのまま救う仏様となって現れて下さったのが阿弥陀仏です。
苦しむ私をほおって置かれるはずはありませんし、救うために何か条件をつけられることは絶対にありません。

追記 19願の報身仏や、20願の報身仏はいない 2011/04/04 10:26更新

今日のエントリーに追記で書いておきます。
今日のエントリーで

いますでに成仏したまへり、すなはちこれ酬因の身なり。(同上)

のご文を引用しました。
酬因とは、因願酬報ということで、法蔵菩薩の起こされた48願をまとめておさめれた第18願に報いてあらわれた仏身のことです。

「善をしなければ助からない」という第19願の報仏である阿弥陀仏や、「念仏を称えたら助ける」という第20願の報仏である阿弥陀仏はおられないということです。

*1:酬因の身・・四十八願を総摂した第十八願にむくいてあらわれた仏身。