安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

死んだらどうなるのかについて(おさびしやまさんのコメント)

おさびしやまさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

死んだらどうなるのかという疑問は仏教を聞くきっかけにもなっていますから私も知りたいです。達男さんの「私は疑いが晴れないまま死んだらどうなるのか?」という質問に対して「阿弥陀仏の本願は、浄土往生させるという願いです。」との答えではよく分かりません。私のまわりでも、死んだら、無間地獄に堕ちると言う人もいれば、化土往生すると言う人もいれば、六道を輪廻すると言う人もいて、よく分かりません。実際どうなのでしょうか?「死んだ後の心配よりただ今救われる法を聞きなさい」と仰ることは聞法の姿勢としてそうあるべきなんでしょうが、死んだらどうなるかを仏教ではどう教えているのかということが素朴に知りたいのです。(おさびしやまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101102/1288698860#c1288794522

死んだらどうなるのか?という問いには、疑情が晴れなければ報土往生はできないと回答しました。おさびしやまさんがどういう方かは、分かりませんが、観無量寿経に説かれる諸行を実践して浄土往生を願ったり、阿弥陀経に説かれる一心不乱の自力称名念仏を実践して浄土往生をしようと思っている方ではないと思います。
普通に生活をしている方なら、疑情が晴れなければ六道輪廻から離れることはできません。その上で、念仏誹謗するものは無間地獄となります。

「還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入」といふは、生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり。(正信偈大意・註釈版聖典P1038)

仏教は「生死出づべき道*1」を教えられた教えです。
生死とは、サンスクリット語のサンサーラを訳した言葉です。サンサーラとは、迷い、流転という意味です。その迷いを離れて、生死を超えた仏のさとりを開く教えです。

どのような行を励もうとも生死から離れることができない者のために建てられたのが、阿弥陀仏の本願です。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄第3条・註釈版聖典P834

阿弥陀仏の救いはただ今の救いですから、仮に今までに救われていなくても、ただ今救われます。死んだ後がどうなるかと考えても、それは逃れられない運命のようなものではありません*2。五逆や謗法の罪を造った者でも、ただ今阿弥陀仏に救われれば、生死を離れて、死ねば阿弥陀仏の浄土に往生させていただけます。
現在の自分に、そのまま来いと呼び続けておられるのが南無阿弥陀仏です。死ねば自分がどうなるかも分からない凡夫に、お前の生まれるところはこの浄土だと呼びかけておられるのです。その南無阿弥陀仏を疑いなく聞いて、ただ今救われて下さい。