安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏称える信前の者は20願にとどまっていると。そしてその自覚なくして他力に入ることはありえないのだと。(不信人さんのコメントより)

コメント欄が長くなったので、今回はエントリーとして書きます。

不信人 2012/04/23 04:40
〉コメントを書く前に一つ確認しますが、貴方のコメントには、三願転入とか、三願という言葉が多いですが、いわゆる高森会長のいう三願転入の話と同じ理解ということでよろしいのでしょうか?

化身土巻の当該箇所さす言葉として「三願転入」と呼びました。他の呼称があるならばお教えください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120415/1334447108#c1335123635

これに関しては他の呼称は私もしりません。

(続き)
このご文についての私の理解は親鸞会とは異なります。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120415/1334447108#c1335123635

ということで了解しました。

(続き)
〉お尋ねの「果遂の誓い、まことに由あるかな」については、救われた喜びから20願を読まれた上での味わいです。20願のお陰で助かったということではありません。理由は、その直前の真門釈の結論として、20願は方便であるから、早く離れなさいと厳しく戒められているからです。

「味わい」で片づけられるのですか。
方便だから捨てよと言われるものだから、味わい以上の重きは置けない、ということでしょうか。
私にはそうは思えないのです。
18願の他力の世界に出られた親鸞聖人が、「20願のおかげだったな」としみじみ尊んでおられるお言葉に聞こえます。

それは「20願のお力で極楽参りしよう」という人には決して起きないことで、20願の自力の念仏しか称えられない身を栫ながら18願の他力信を求める者にこそ起きることではないかと。

この部分は、私は「味わい」不信人さんは「そうは思えない」ということですから、議論にはなりませんので、これ以上言及しません。

(続き)
夕顔さんから「18願の報土往生を願って念仏する未信の人は存在しません」と、指摘されてしまいましたが、
実は私もそう思っております。念仏称える信前の者は20願にとどまっていると。
そしてその自覚なくして他力に入ることはありえないのだと。
そのうえで、余行を排し念仏為先と勧むべきを、誤っているのが親鸞会だと、このように思っております。
またご指導ください。

「20願にとどまっている」とか「その自覚なくして他力に入ることはありえないのだと」というのは、私の勘違いかも知れませんが、非常に「親鸞会的(高森会長的)」だと思いました。

親鸞聖人が、教行信証化身土巻において、20願について言及されたのは当時の浄土門内の人たちに対する批判のためです。

教行信証真仏土巻より

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。(教行信証真仏土巻・浄土真宗聖典(註釈版)P373)

http://goo.gl/r5pmP

真仏土について書かれた後に、化土については以下(化土巻)に書くといわれています。
報土化土の違いを知らないから、阿弥陀如来の本願に真仮があることを知らないから阿弥陀如来の恩徳が分からないのだ。だから、この真仏土巻で、真仏と真仏土を明らかにしたと書いておられます。

このように言われたあと、化身土巻では、20願について以下のように厳しく誡められています。

まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離の期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(教行信証・化土巻・浄土真宗聖典(註釈版)P412)

http://goo.gl/hXc1a

大まかな意味を書きます。
どれだけ念仏一つを称えている人であっても、阿弥陀仏の18願を疑う人は救われない。(略)
大変悲しいことだが、自力の心が離れきれないために、六道輪廻から出て離れることが出来ない。だから、どれだけ長い時間がかかったとしても救われることはない。だから、本願の名号を自分の善根のように思うから、信心定まることもなく、報土往生もできないのだ。と言われています。

ここから分かるように、親鸞聖人が真門釈で誡められているひとは、「念仏を自分の業と考えて、それによって往生できる(化土を知らない)」と思っている人のことです。

真仏土と化身土の違いもわからず、本願に真仮があることも知らない人が、20願の行者として批判されています。

そこで、不信人さんが、「信前の人は20願」と言われるのは、浄土真宗で第十八願の救いを聞いている人には当てはまらない話です。

蓮如上人も御文章では「信・不信」の区別はあっても、18願の行者・20願の行者かどうはは特別に問題視しません。あくまで本願を疑いか、どうかの信疑決判です。

18願を疑うか、信ずるかの信疑決判はあっても、20願か18願かという区別をしないのが浄土真宗です。もし、20願の人かどうかを問題にするとすれば、「20願の行者にならねば救われない」となり、阿弥陀仏の救いに「段階」を設けることになってしまいます。