安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「どうして阿弥陀仏はすごい力を持っているのに、僕たちみたいに身動きのとれない人間を消してくれないんだろう。」(死人さんのコメントより)

死人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

死人 2013/06/26 20:40
(略)
教えてほしい。
どうして阿弥陀仏はすごい力を持っているのに、僕たちみたいに身動きのとれない人間を消してくれないんだろう。
仏の悟りとか幸せなんて求めてないんだ。
もう二度と人間なんかにも生まれたくない。
生きられる人は生きればいい。
本願寺に行ける人は行って救われればいい。
でも、僕みたいにこの世界に居場所がない人間をどうして今すぐに消してくれないのかな。
そもそも、そういう願いさえ虫のよすぎる話なのかもしれない。
彼氏や友達が死を選んだ時になにもできなかったのに。
僕みたいな人間が救いを求めること自体が間違っているのかもしれないな。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130626/1372237458#c1372246842

阿弥陀仏が身動きのとれない人間を消さないのは、消すことがその人を救うことにならないからです。
死人さんが、「もう二度と人間なんかにも生まれたくない」と願われることを、恵信尼消息には「生死出づべき道」といわれます。

ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば(恵信尼消息)

http://goo.gl/84n5y

恵信尼消息とは、親鸞聖人の内室であった恵信尼公の手紙です。上記は、親鸞聖人が比叡山をおりて法然聖人の元に通われている様子を書かれたものです。
法然聖人は、ただ後世のことは、善い人も悪い人にも同じように生死を出る道をただ一筋に仰いました。それを親鸞聖人は聞かれたということが書かれています。


死に方はことなっても、死んで全く無になることはなく、また何かに生まれます。次の生も終われば、それで無になることはなく、また何かに生まれます。このように生まれては死ぬ、死んでは生まれるを繰り返すことを、生死を繰り返すといいます。
死人さんが、「人間なんかにも生まれたくない」と願われるのは、よく分かります。阿弥陀仏は、私が生死を繰り返すことを憐れに思われて、生死出づべき道として本願を建て、浄土を建立されました。


死人さんが生死を離れた先の居場所として浄土を建立されたのです。ただ、その浄土にはただ今阿弥陀仏に救われて、信心獲得の身にならねば往生することはできません。死人さんが、ご自身をどう思われているかは問題ではありません。自分自身に値があると思っているから生死を離れて浄土往生ができるのではありません。また、値がないと思っているから生死を離れて浄土往生ができないのでもありません。死人さんが、救いを求める前から、阿弥陀仏は本当の意味での救いを用意しておられます。それが、南無阿弥陀仏による救いです。

また、救いを求めるのは権利ではありません。こんな自分には救いを求めてはならないということは絶対にありません。死人さんが救われたくても救われたくなくても、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べておられます。その救いの手は、南無阿弥陀仏とも本願力ともいわれます。必ず浄土に往生させるという本願には、実際に私を浄土往生させる力があります。その本願力にあう人は、生死をむなしく繰り返す人は一人もありません。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃)

http://goo.gl/Xh4kW

本願力にあったならば、空しくこの生を終えていく人はありません。阿弥陀仏の功徳が宝の海のようにたくさんありそれが私の身に満ち満ちて、濁った水のような煩悩も阿弥陀仏のお働きの邪魔はできないと言われています。


本願力にあうとは、南無阿弥陀仏が私を助けるお働きと疑い無く聞き入れることです。
阿弥陀仏の本願力には、どんなに濁った水のような煩悩も妨げにはなりません。どれだけ自分は、汚れているとか、つまらないものだと思っていても、また実際にそうだったとして、本願力の障げにはなりません。
死人さんが願わなくても、願われている阿弥陀仏の願いが叶いますから、空しくすぎることはありません。必ずただ今救われますから、ただ今、南無阿弥陀仏によって救われてください。