yamamoya

浄土真宗の信心についての問答

そもそも、浄土真宗の救いというものは、後生(の存在が確信でき、かつ)浄土に行くことが確信できる(ため、現在の人生も有意味として肯定できる)という救いではないのでしょうか。(id:rigyabyaさんのコメントより)

anjinmondou.hatenablog.jp
について、頂いたコメントについて書きます。

id:rigyabya 2019-09-29 20:05


(略)
阿弥陀様は、後生救ってくださるのではなく、ただ今救ってくださるのですね。
(というか、ただ今にでも死んで後生になるのだから、後生=ただ今ということ?このあたりは、まだ消化しきれていません。)

しかし、
「それ以上考えても後生の確信というのは生まれてきません。その点ではもう済んだ話になります。」
というのは、「救われていない私にとって、救われる前の段階としては、そう」という意味でしょうか。
それとも、「救われた人はみな、後生の確信などというものはない」ということでしょうか。
前者でしたら、理解できました。あとは、「まかせよ」をそのまま受け入れるだけということですね。
ところが後者だとすると、救われても後生についての確信が持てるわけではない、ということになり、
あまりわかった感じがしてきません。(すみません混乱しています。)
そもそも、浄土真宗の救いというものは、後生(の存在が確信でき、かつ)浄土に行くことが確信できる
(ため、現在の人生も有意味として肯定できる)という救いではないのでしょうか。


阿弥陀仏は、ただ今助ける仏様です。

救われたら後生についてどう思うのかについて、書きます。
前回少し引用した御文章から、その前後を含めるとこう書かれています。

そもそも、当年の夏このごろは、なにとやらんことのほか睡眠にをかされて、ねむたく候ふはいかんと案じ候へば、不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候ふ。まことにもつてあぢきなく名残をしくこそ候へ。さりながら、今日までも、往生の期もいまや来らんと油断なくそのかまへは候ふ。(略)
明日もしらぬいのちにてこそ候ふに、なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ。命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、御こころえあるべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。(御文章一帖目6通・睡眠 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1092)

https://bit.ly/2p2LJsG

ここでは、蓮如上人は「今年の夏は、どういうことか日中も眠気を感じることから、いよいよこの命が終わって浄土往生をする時が近づいて来たのだと感じる。そう思うとまことにやるせなく、残念な名残惜しい思いがある。そうとはいいながら、今日まで、いま往生するぞと油断なくその心構えはできています。」と最初に書かれています。
阿弥陀仏に救われて信心決定の身になれば、浄土往生を遂げる身になるので、最後に「明日をも知らぬ命だからこそ、いのちがおわればいたづらごにになってしまう。命のあるうちに不審(疑い)を早く晴らさなければ、かならず後悔することになります。よくよく心得てください」と書かれています。


ここで蓮如上人は、後生について「往生の期もいまや来らんと油断なくそのかまへは候ふ」といわれています。
後生については、浄土に往生するのだといわれているのですが、これについて「確信」という言葉はあまり適当ではありません。


それを説明するのに、後半に「命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは」といわれる不審について説明をします。この不審というのは、阿弥陀仏の本願、阿弥陀仏の救いについての疑いをいいます。


阿弥陀仏は、ただ今この私を助ける仏ですが、具体的にはこの命が終われば浄土に往生させて、仏にするというものです。その阿弥陀仏の救いについては、あれこれ疑いをもっていることをここでは「不審」といわれています。では、救われるとどうなるかというとこの不審が無い状態になります。この状態を、信心(決定)といいますが、親鸞聖人は「無疑」といわれています。

「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P678)

https://bit.ly/2obBWQG

この信心とは「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなき」ことをいいます。阿弥陀仏の本願を聞いて疑いがないことですから、「無疑心」ともいわれます。この無疑心は、確信とは違います。
無疑の方は、私の方には何もないことです。それに対して、確信とは私の方に固く信じて疑わない信念をもつことをいいます。もう少し言い方を変えると、「無疑」は私の方に疑いないことで、「確信」は私が信じて疑わないことをいいます。


最初の御文章にもどると、蓮如上人が「往生の期もいまや来らん」といわれるのは、そのような「確信」をもっておられるのではありません。「かならず往生させるという阿弥陀仏の本願に疑いない」のです。後生のことに「確信」をもつには、凡夫の身では不可能です。まず、「死」というものを体験しないと「死そのもの」についてこういうものだという確信はもてませんし、浄土についても同様で実際に往生してみなければ「確信」というのは生まれません。またあったとしても「私が信じて疑わない」というただの信念の話になってしまいます。そんな信念というのは、環境によっていつでも変わる可能性があります。そのような「私は浄土往生できるという信念」では現在の人生を意義あるものとすることもできません。できたとしても、大変覚束ないものとなります。


それに対して、「阿弥陀仏の本願に疑い無い」とは、阿弥陀仏が浄土往生をさせるということについて私があれこれ疑う心がないということです。先ほどの確信では、私の方で「大丈夫」としなければなりませんが、「無疑」の方では阿弥陀仏の方が「大丈夫」となっているということです。後生についての、主体が変わっているのがその違いです。


では、無疑心の方は「確信」がないとすれば、何が私の方にあるのかといえば、南無阿弥陀仏があるということです。南無阿弥陀仏を聞いて疑いないのが信心ですから、私の方にはただ南無阿弥陀仏があるだけです。この南無阿弥陀仏は阿弥陀仏からの救いの働きであり、喚び声ともいわれます。「ただ今助ける」「浄土に往生させる」という南無阿弥陀仏があるだけですから、私の方で後生の心配をする必要はなくなります。心配のタネだった私の後生について、自分でなんとかしなければならないと思っていた問題を、引き受けて下さるのが阿弥陀仏の救いです。ですから、後生については「私の問題」から「阿弥陀仏が救って下さったこと」に転換してしまいます。そうなれば私の方に確信は必要ありません。


浄土真宗の救いは、阿弥陀仏にただ今救っていただき、後生は阿弥陀仏にまかせて浄土往生をさせて頂き、仏になるというものです。それについて不審がない、疑い無いのが浄土真宗の信心といいます。