安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「疑いが晴れないまま死んでしまうと、どうなる?」(達男さんのコメント)

達男さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

南無阿弥陀仏に対する疑いが晴れないまま死んでしまうと、どうなるのでしょうか?
無間地獄ですか?化土往生ですか?それとも、三悪道ですか?六道輪廻ですか?(達男さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101101/1288579981#c1288618427

疑情が晴れないまま死んだらどうなるのか?というお尋ねに対して、間違いないのは報土往生はできないということです。
その上で、無間地獄なのか、化土往生*1なのか、三悪道なのか、六道輪廻なのかについては、どの時代のどんな人*2かによって異なる*3ので「全ての人は○○行き」という言い方ははできません。

「還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入」といふは、生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり。(正信偈大意・註釈版聖典P1038

末法の時代の罪深い凡夫は、六道輪廻としたところでも、六道の中の三悪道(地獄・餓鬼・畜生)なのか、地獄に限るのかといわれれば、その人その人がどんな罪を造ったかにより異なります。

この問いで大事なのは、達男さんが、「全ての人は」という意味で尋ねられているのか、「私は(この場合は達男さん)」という意味で尋ねられているのかということです。

コメントの文面から、「私は疑いが晴れないまま死んだらどうなるのか?」という問いだと思いました。(違っていたらまたお知らせ下さい)

その前提で、「私は、疑いが晴れないまま死んだらどこへ往くのだろうか?化土往生なのか、地獄なのかハッキリしないのは不安だから、どこへ往くのかを聞きたい」というお気持ちなのでしょうか?

阿弥陀仏の本願は、浄土往生させるという願いです。化土往生させるというのが阿弥陀仏の本当の願いではありません、また、地獄へ堕ちなければよいという本願でもありません。

かくのごとく、微妙厳浄の国土をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生をみちびかんがためなり。
国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。(唯信鈔・註釈版聖典P1340

上記の唯信鈔のお言葉は、阿弥陀仏の本願について書かれています。
阿弥陀仏が浄土を建立されたのは、私をその浄土へ導くためです。もし、どんな素晴らしい浄土があっても、私がそこへ往生することができないならば、それは大慈悲の本願の御心にあわないものになってしまいます。

阿弥陀仏は最初から、浄土に生まれられない人が一人もないように本願を建立されました。ですから「もし浄土往生できなかったら」と私が考えるようなことは、阿弥陀仏がすでに五劫思惟されていることです。その上で、私が必ず浄土往生出来るようにと、南無阿弥陀仏一つで救うという本願を建てられました。

もし疑い晴れなかったらという心配をするより、必ず救うという阿弥陀仏の本願を聞いて下さい。死んだ後の心配をするより先に、ただ今救われる法を聞いて、ただ今救われて下さい。
「私は地獄へ往きたくないから浄土へ生まれたいです」と、私が願うより先に、阿弥陀仏の方から「どうか私の浄土に生まれて下さい」と願われているのです。

(脚注で紹介したブログのエントリーも是非ご覧下さい)