安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「○○だから信心決定」について・追記

前回のエントリーの補足として書きます。
○○だから信心決定しているの「○○」に私の三業は入らないということを書きました。信心と言っても、その体は南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏そのものです。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。(安心決定鈔・註釈版聖典P1386

南無阿弥陀仏には、阿弥陀仏の全ての徳がおさまっていますので、名号と仏体(仏のさとり)は一体であって二つではないことを、名体不二といいます。
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の正覚の全体であるから、十方衆生の往生の体となるといわれています。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の正覚の全体でありますから、五劫思惟の願と兆載永劫の行の全てが収まっています。そこには、私の行は一行も入っておりません。また、何か特定の行を必要とするならば、その行ができない人は救われないと言うことになります。
親孝行を必要とするなら、親孝行をしない不孝な者は救われませんし、読経をしないといけないとなれば文字が読めない者は救われません。また、布施をしないと助からないとなれば、施す心の無い人は助からないと言うことになります。
どんな人ももらさず浄土に往生させるという願いから、南無阿弥陀仏一つで往生させようと働いて下さっています。
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の行であって、私の行ではありません。そのため、私の側には証拠はなにもないのです。