安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「○○だから信心決定している」について(おさびしやまさん)

おさびしやまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。わかりにくいエントリーを書いて申し訳ございませんでした。

山も山さんが、信心決定していると言われた根拠をお聞きしているので、「○○だから信心決定していると言ったのです。」という答え方で再度お願いできないでしょうか。(おさびしやまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101018/1287393413#c1287502021

このコメントにまた、でんさん、大空さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
おさびしやまさんのお尋ねは、文面からしますと「○○」に「私の三業」を入れて答えて下さいと言われているように感じました。
しかし、この○○に私の三業を入れると、どうしても自力の信心の表現にしかならないので、そのような回答はできません。もし、そういうことができる信心なら、真実信心とはいえません。

「○○だから信心決定していると言ったのです」という言い方で答えますと、「常に南無阿弥陀仏と呼びかけられ、南無阿弥陀仏と働いて下さるから信心決定している」という言い方になるかと思います。

「本願に疑いない(無疑心)から、信心決定している」という言い方も考えましたが、「無疑心=真実信心」ですから「真実信心だから信心決定している」となります。そうなると、おさびしやまさんのお尋ねに対する直接的な回答にはならないと思ったのでやめました。
「疑いが無いから」というと、自分の心を判断材料にして、真実信心かそうでないかを判断しているように読めてしまうからです。

「○○だから信心決定している」と言うと、○○が因で、信心決定は果という文章になります。例えば「喜べたから信心決定している」というと、喜べたことが因となって、信心決定という結果が生じたという文章になりますが、これは間違いです。

信心決定は、その因に私の三業は何も入っていませんので「○○だから、信心決定してる」ということはできません。もし、少しでも私の三業の何かが加わっていれば、「○○だから信心決定している」ということはできますが、全く入っていないためできません。

真実信心は、本願に疑いない心ですが、その本体は疑いなく私を助けるぞという阿弥陀仏の心です。私の心ではありません。

信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり(御文章1帖目15通 宗名・当流世間 註釈版聖典P1106

ここで「如来の他力のよきこころにてたすかる」と言われるのは、阿弥陀如来の私を助けようというお働き(仏心)によって助かると言われているのです。
助ける本願があるから助かるのであって、それ以外になにか証拠といっても私の側には何もありません。南無阿弥陀仏一つで救われます。私の方に「○○だから」と言えるようなものはありません。
私の文章が分かりにくいため、何度もお尋ね頂くことになり申し訳ございませんでした。