安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自力をすてる力は南無阿弥陀仏にそなわる?(でんさんのコメント)

でんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

しかし、自力を離れぬ者は救われぬ。自力を棄てる力(即ち他力)も南無阿弥陀仏に具わる、という理解でよろしいでしょうか。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101023/1287821377#c1287870017

自力を捨てさせる力は南無阿弥陀仏の中にあります。
仰るとおり自力をもって浄土往生はできません。しかし、自力を自力で捨てるのではありません。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻・註釈版聖典P170)

南無阿弥陀仏の、南無は帰命であり、帰命は本願招喚の勅命なりといわれています。
本願招喚の勅命とは、「衆生に帰命せよと命じる弥陀の呼び声」のことです。
勅命と親鸞聖人がいわれるように、逆らうことのできない強い阿弥陀仏の仰せです。

その仰せの前には、あれこれいう自力の計らいは、無くなってしまいます。よって、本願招喚の勅命の前に、自力の計らいは捨てさせられることになります。

たった一声聞いてみりゃ
この一声が千人力
四の五の云うたは昔のことよ
ぢゃとて地獄は恐ろしや
なんにも云わぬが こっちのねうち
そのまま来いのお勅命
いかなるおかるも 頭がさがる
連れて行かうぞ 連れられましょぞと
往生は投げた投げた(お軽同行の歌)

「いかなるおかるも 頭がさがる」と言われているのも、「そのまま来いのお勅命」に対してのことです。どれだけ逆らう自力の心も、南無阿弥陀仏を前にすると、ただただ仰せに従うばかりです。従わない者を回心させ、そのまま浄土に往生させるのも、南無阿弥陀仏のお働きです。