安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われたら何でも分かるようになると思ってました。

おさびしやまさんのコメントについて、昨日エントリーを書き、その後思ったことを書きます。
私は、親鸞会に15年間在籍し、そのうち10年間は講師部員でした。
親鸞会では、「信心決定することは一切経を読み破る体験だ」と聞かされて来ました。
阿弥陀仏に救われれば、お聖教に書かれていることが全て分かるようになるのだろうと思っていました。そういうこともあって、お聖教の意味を真剣に読もうという気持ちにならなかったのではないかと、今は思います。

ただ、阿弥陀仏に救われたといっても、実際にお聖教を読んでも何もかも分かるかのように読めることがないことに、最初は驚きました。信心決定といったところで、凡夫は凡夫で有ることには変わり有りません。勉強したこともない仏語が、自動的に分かることはありません。
もしそうなら、阿弥陀仏は「凡夫を学者にしてみせる」という願を建てられたことになります。
現在も勉強中ですが、勉強していない言葉や自分で充分に理解できないところはいくらでもあります。

南無阿弥陀仏と称えさせ、救って下さるという阿弥陀仏の本願は本当に有り難いと思います。これは、賢くなってそう思うのではなく、阿弥陀仏の本願が素晴らしいということなんだと知らされます。