おさびしやまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
私は、救われたら、正しく法を説かれる方のお話を聞いたり、お聖教を拝読したときには、まったく自分の心と同じだと共感するものと思っていましたし、それを目標にしてきたように思います。そこで尋ねますが、山も山さんは、お聖教を読まれても、ある特定の意味をあらわす文字の羅列としか見ておられないのでしょうか。そのとおりそのとおりという共感はないのでしょうか。(おさびしやまさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101002/1286023920#c1286082735
そのとおりと思うところはあります。ただの文字の羅列で何も思わないと言うことはありません。
ただそれは「自分の心と同じだと共感する」ものとは違います。阿弥陀仏の本願について書かれているお聖教を読み、阿弥陀仏の本願はまことだなと思うのです。
信心と言っても、自分の心が何か仏のようになるわけでも、菩薩のようになるのでもありません。また、自分に力があってのことでもありません。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(教行信証総序・註釈版聖典P132)
の教行信証総序のお言葉を拝読すると、遠く阿弥陀仏からの働きかけがあったからであり、たまたま救われたのだなぁと思います。
お聖教に書かれていることも、阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏のいわれについて以外にありませんから、読ませていただけば、阿弥陀仏の本願は本当だなという意味で、本当だなと知らされます。
しかし、お聖教の言葉でも、勉強しないと分からない仏語までも、調べなくても分かると言うことはありません。