安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「口を開けばみな計らいですので、口を開くのが辛くなってきました」(おさびしやまさんのコメント)

おさびしやまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

考えてみますと、私が阿弥陀仏に向かって思うところはすべて計らいですね。自分に計らいはないはずと計らう心を探すのも計らい。阿弥陀仏の呼び声が疑い無く聞こえているのではないかと考えるのも計らい。このまま疑いあるままでの救いであるはずと思うのも計らい。救われたと明言する人は何を根拠にそう言えるのかと思うのも計らい。口を開けばみな計らいですので、口を開くのが辛くなってきました。(おさびしやまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101010/1286714630#c1286778934

いろいろと思うことが、あれもこれも計らいとなると、辛くなってくるものです。
しかし、計らわないように、どうした計らわないのだろうかと考えるのも計らいです。グルグルと堂々巡りをしていれば、いつか計らいが尽きるというものでもありません。

どうやったら計らわないように、どうやったら計らいから離れることができるのかというのが、自らの計らいにばかり目を向けて、阿弥陀仏から目を背けている姿です。

私が計らないようにできて救われるのではありません。阿弥陀仏の本願力によって救われるのです。

往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。めでたき智者もはからふべきことにも候はず。大小の聖人だにも、ともかくもはからはで、ただ願力にまかせてこそおはしますことにて候へ。ましておのおののやうにおはしますひとびとは、ただこのちかひありときき、南無阿弥陀仏にあひまゐらせたまふこそ、ありがたくめでたく候ふ御果報にては候ふなれ。とかくはからはせたまふこと、ゆめゆめ候ふべからず。(御消息4通・註釈版聖典P743)

往生はともかく凡夫がどうこう計らってどうにかなることではありません。智慧のある人も、さとりを開いた聖者も、ただ阿弥陀仏の本願力にまかせるよりほかにありません。まして、私のような凡夫は、ただ阿弥陀仏の本願によって成就された南無阿弥陀仏によってこそ、往生浄土することができます。
「とにかくはからはせたまふこと、ゆめゆめ候ふべからず」と親鸞聖人がいわれているように、あれも計らいではないか、これも計らいではないかということはもうやめて、ただ願力にまかせて、阿弥陀仏に救われて下さい。