安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願を聞くということがよくわかりません。お聖教に書かれていることが、その通りと納得できたら「聞いた」ことになるのでしょうか?」(頂いた質問)

本願を聞くということがよくわかりません。お聖教に書かれていることが、その通りと納得できたら「聞いた」ことになるのでしょうか?(頂いた質問)

「本願を聞いて疑い無い」と聞くと、本願がよく分かるようになるのだと考えてしまいます。確かに、本願をそのまま聞いているとか、「助けるの仰せを聞いて助かる」と聞くとそのように考えてしまいます。


ただ、お聖教を読んでよく納得できた、疑問がない状態を指して信心ということになるのであれば、学問のできる人は救われるということになります。それでは、どんなものも救う本願を建てられたいわれに反します。
南無阿弥陀仏といっても、仏願の生起本末といっても、お聖教に書かれているのは文字であって、南無阿弥陀仏そのものではありません。


親鸞聖人が教行信証行文類で、南無阿弥陀仏について

ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行文類・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P170)

http://goo.gl/1GwJL

と書かれています。


南無阿弥陀仏は文字ではありません。「本願招喚の勅命」であり、直ちに来れと私に命じられる阿弥陀如来の喚び声です。世の中の「喚び声」も文字にはできません。同じように、お聖教に書かれていることは「本願招喚の勅命なり」とあっても、その文字自体が「如来の喚び声」ではありません。


文字で表そうとされている南無阿弥陀仏は、私の口から現在称えられているところのものです。その南無阿弥陀仏こそが、本願招喚の勅命であると教えられています。
文章で「月がきれいだ」とあっても、実際に月を見ないことには、月を見たことにはなりませんん。同じように「本願招喚の勅命」と文章をどれだけ読んでも、本願招喚の勅命を聞かないことには聞いたことにはなりません。


しかし、聞くといっても別に頭の中に不思議な声が聞こえるようになるようなものではありません。月の光は、必ず地面を照らすように、本願の光明は私を必ず照らして救ってくださいます。南無阿弥陀仏は私に「直ちに来れ」と呼びかけておられます。実際に、そのように阿弥陀仏が喚び抱えられているのが南無阿弥陀仏なのですよと教えられているのがお聖教の言葉です。


言葉の中を探すのではなく、言葉で伝えようとされているところの南無阿弥陀仏を聞いて救われてください。