安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「凡夫である私を、今、そのまま救うと言う本願を、そのまま聞く。」の「聞く」がよくわかりません。(退会20年目さんのコメントより)

退会20年目2012/03/15 20:42
私も親鸞会に10年間どっぷり浸かっていましたので親鸞会を退会したあとも、親鸞会用語で真宗を理解しようとしていました。

そんな私ですが、どうしてもわからない疑問が2つあります。2つ目は1つ目の回答次第で解決しますので、まずは1つ目の疑問

「凡夫である私を、今、そのまま救うと言う本願を、そのまま聞く。」の「聞く」がよくわかりません。
阿弥陀仏が救うと誓われているのだから、それを信じましょうということであれば、全人類が既に阿弥陀仏に救われているということにはなりませんか?
私は自分の力では出離の縁はないと頭でわかっていますし、阿弥陀仏がそういう凡夫を哀れんで本願を立てられたのも頭ではわかっています。
しかし、所詮、頭で理解しているだけなので、わずかに疑いもあります。
信心が定まるとは疑いがなくなった状態と理解していますので、頭で理解しているだけでは定まっているとは言わないですよね?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120315/1331802283#c1331811756

聞くとは、聞いて疑いないことです。いわゆる無疑心のことです。ただ、それは自らの心を整えて「信じる」とは違います。阿弥陀仏の仰せに対してそのまま従っていることです。

信じましょうと言っても自分で信じにかかるのではありません。そうやって自分の方から信じるのは自力の信です。他力の信心は、自分の力で信じるのではなく、本願をそのまま聞いていることです。それが、聞いたということです。

それから、コメントで一つ気になるのは、理解はできるけれども疑いがあるという言い方です。

これは心情を言われたものでしょうか?それとも、理解ができないということでしょうか?