安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自分が仰いだ法と親鸞上人が仰いだ法に違いないことはどうわかるのでしょう。」(sさんのコメントより)

s 2018/08/14 16:59
引き続き、ありがとうございます。
>仏願の生起本末を聞きて疑心あることなしとなれば、そういう疑問は起きません。
それ以外の疑問は起きることがあるということでしょうか。

>南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いという、いわゆる法を仰ぐという意味では違いはありません。
では、その仰ぐ法に違いがないことはどうしてわかるのでしょう。
自分が仰いだ法と親鸞上人が仰いだ法に違いないことはどうわかるのでしょう。
南無阿弥陀仏を聞いて疑いないから、同じに違いない(凡夫ではわからない)ということでしょうか。
安心決定鈔を引用されましたが、根拠の引用というのは、常識的に言うと、何かしら根拠に対する理解がないと出来ないことだと思いますが、その理解は凡夫としての理解でしょうか。阿弥陀仏の智慧によるはたらきでしょうか。
もし前者なら、阿弥陀仏の本願や親鸞上人の信心について何かしら思考による理解があるでしょうし、後者なら、阿弥陀仏の智慧を通して生死を離れることについてもわかると思います。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180814/1534226393#c1534233596

それ以外の疑問というのは、どういうものを想定されているのかよくわかりません。
ただ、お聖教を読んでいて言葉の意味がわからない箇所などについての疑問は起きます。前の記事にも書きましたが、「自分が生死を離れたかどうか」についてはとくに疑いはありません。


次の仰ぐ法に違いはないについては、縮めていえば「南無阿弥陀仏」だからです。法然聖人や親鸞聖人が勧められた南無阿弥陀仏と、私がその勧めにしたがって称えている南無阿弥陀仏には何も違いはありません。なぜ違いはないかといえば、この南無阿弥陀仏は、私が観念で思い描いたものではなく、阿弥陀仏の本願によって成就して本願力によって回向されているところの南無阿弥陀仏だからです。


次の根拠についてですが、凡夫でも分かるようにということで書かれているのがお聖教です。文字通り以外の意味が多くあるなら誰も読めません。