おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
信後の人は(昔は疑いながら本願を聞いていたけど、今は疑い無く本願を聞かせていただけるようになったなぁ・・・。)と
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100921/1285063526#c1285138352
いう心境になるのですね?(おしゃまさんのコメント)
味わいは、人それぞれですから、表現も人それぞれです。
本願を疑いなく聞かせていただいているというだけです。
御文章に引用されている歌で言えば、
古歌にいはく、
http://wikidharma.org/4c99c7f611312
うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな
「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。(御文章1帖目1通・ある人いわく・註釈版聖典P1084)
ここで、「こよひ」と言われているのは「ただ今」のことです。
いつからかはあまり問題ではなく、ただ今「正雑の分別をききわけ、一心一向になりて」ということです。
心が変わるというのは、助かる法について、役に立たぬ雑行を役に立たせようとしていたが、本願1つであったと変わることであって、自分の心全体が(性格的なことも含めて)変わってしまうのではありません。
MIさんのコメントについて
MIさんからコメントを頂きました。有り難うございました。
私の状態なのですが、
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100921/1285063526#c1285227717
これは信心なのかどうか確かめていただけたらと思います。
(略)
もし、もうお助け頂いたのなら、
喜ぶ事も無く普通にしてる私はけしからんやつですね!
信心でも何でもなければ、
私の安楽椅子を破壊して頂けたらと思います。(MIさんのコメント)
信心かどうかを判定することはできません。
「真実信心は無疑心です」という言い方は、親鸞聖人が書き残されているのでいうことはできますが、「MIさんの信心は、真実信心です」と言うことはできません。
人の心の中というのは分からないからです。
ただ、コメントの文面では今一つ不明なところがあるので、お尋ねします。
自分は信じているのかどうかも、
疑う心があるのかも、今よく分からない状態なんです。
御文章の「古歌」にある、「昔」は疑う心があったけれども、今は、疑う心があるかどうかよくわからないということでしょうか?
それとも、「昔」も今も疑う心があるかどうかわからないということでしょうか?
分からないところだったのでお尋ねします。