安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

人に仏法をお話しするときの姿勢について(KMさんのコメント)

KMさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

人に仏法をお話するときの私どもの姿勢、心がけを教えてください。
私自身が、まだ南無阿弥陀仏に対する疑いは晴れてはいないのですが・・(KMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100919/1284853397#c1285040921

自分は知っている、だから教えるのだと上に立った考えを持たないことだと思います。
親鸞聖人は、常に御同朋御同行と仰っておられます。

故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」(歎異抄・六)とこそ仰せられ候ひつれ。「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。(御文章1帖目1通・ある人いわく・註釈版聖典P1084

阿弥陀仏の御前では、先救われたとか後で知らされたということはあっても、師匠と弟子という関係はありません。
自分が先に仏法を聞くご縁に恵まれて、未だ聞いたことが無い人にお話をすることがあっても、その相手は友だちであり、同行です。友だちという立場からすれば「一緒に聞かせて頂きましょう」となります。

ひとにあきらかに申すべき身にもあらず候ふ。(御消息10・註釈版聖典P578・末灯鈔8通

御消息には、人に明らかに教えを解説するような身ではありませんともいわれています。

自分の口で言わなくても、一緒に聞かせていただきましょうということはできると思います。
また、その方が法座に足を運ぶ気がないのでしたら、KMさんが今まで聞いてきたことをそのままお伝えされたらいいと思います。たまたま先に救われたとか、後に救われたという前後があるだけで、先に救われた人が偉いわけでも、後に救われた人がそれより劣っているということでは有りません。みな同じです。

とは言え、自信教人信ですから、人に伝えるのも大事な事ですが、KMさんがただ今救われることが一番大事なことです。