安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私が救われたことを一番喜ばれるのは阿弥陀仏です(ねこさんのコメント)

ねこさんよりコメントをいただきました。ありがとうございました。

親鸞聖人は「獲信見敬大慶喜」(正信偈)とか、 「ここを以て、極悪深重の衆生、大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲るなり」(教行信証信巻)とか、 「無上の信心を獲れば、すなわち大慶喜を得」(文類聚鈔) と仰っていますが、信心を頂くと大きな喜びの心が起きるのではないでしょうか。(ねこさんのコメント)

喜びはおきます。ただ、喜べるような尊い菩薩になるのではありません。
凡夫の身の上からは、阿弥陀仏に助けていただく浄土を生きている間に間の当たりにすることはできません。見るような知恵がないからです。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり(歎異抄9章)

救われても喜ばないような凡夫と知られた上で、喜ばない凡夫のまま助けてくださる阿弥陀仏の本願を喜んでいるのです。

大きな喜びとは、「何かを得た」喜びではなく、阿弥陀仏の本願のかたじけなさよという喜びです。阿弥陀仏の大慈悲心が有難いという心です。

また、私が浄土往生する身に救われて、一番喜ばれるのは、私ではなく阿弥陀仏なのです。私が「本願が有難いな」と喜んでいるよりも、ずっとずっと大きく喜ばれるのが阿弥陀仏です。