安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

不思議な声を聞くのが「聞いた」ではありません(頂いた質問)

親鸞会にいた時は,鳴かぬカラスの声とか片手の音,不思議な声…というように聞いたことがありますが,自分の称えている音声の中に明らかに自分の声とは異なる阿弥陀仏の喚び声として聞こえてくるということでしょうか。(頂いた質問)

「鳴かぬ烏の声」「片手の音」で喩えられるのは、「特別な音が聞こえるのではない」ということです。よって、明らかに違う声が聞こえるということでは有りません。

阿弥陀仏の呼び声が、実際に現れて下さるのが、南無阿弥陀仏です。

われとなえわれ聞くなれど南無阿弥陀仏
 つれてゆくぞの親のよび声(原口針水和上)

という歌があります。

音としては、自分で称えた「南無阿弥陀仏」を自分で聞いているのですが、その南無阿弥陀仏そのものは、「つれてゆくぞの親のよび声」で阿弥陀仏が「ただちに来れ」と呼び続けて下さっている呼び声です。
いわゆるモーゼやジャンヌダルクが聞いたという「神の声」のような声が聞こえるのではありません。幻聴のように「自分はしゃべっていないの誰かの声がする」という声ではありません。声そのものは、「われとなえわれ聞くなれど南無弥陀仏」です。

正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに(教行信証行巻・註釈版聖典P186・選択本願念仏集の引文

阿弥陀仏が本願で、称名を本願の行とされました。本願に疑いなく南無阿弥陀仏するものは、必ず往生させてみせると誓われています。
ですから、口で称える南無阿弥陀仏は、私が称えようとして称えた音声ではなく、阿弥陀仏の本願の行そのものなのです。それ以外に何か特別に聞こえるものはありません。

「仏願の生起本末を聞いて疑心有ること無し」の、「聞いて」は、称える念仏以外に、法話の場で本願について聞くことや、お聖教の文字であったりしますが、いずれにしろそれ以外の特別な音声が聞こえるのではありません。

大事なのは「特別な音声を聞く」ことではなく、本願を聞いて疑いがあるかないかです。
特別な音声を聞いたか、聞かないかではありません。