安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信後になれば信後になったことがわかる?(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ある布教師の方に「自分の子供を持ったら我が子を愛しいという気持ちがわかるようなるように、信後になれば信後になったことがわかる。」
と言われました。ということは、『一念』はわからなくても『聞即信』になったことは自覚できるのですね?(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100919/1284853397#c1285024658

「聞即信」の定義によると、聞いたままが信であり、信心は聞いたことであるということです。その意味から言えば、聞いたままが信心であったと知らされると言うことです。自覚とまでいうと言い過ぎな気もしますが、本願を知らされると言うことです。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文註釈版聖典P677)

一念多念証文のお言葉は、「聞即信」の「聞」と「信」について書かれたところです。
本願を聞いて疑う心がないことを「聞」と言われ、また「聞く」とは、そのまま信心をあらわすのであると言われています。
聞いたままが信心であり、信心とは、本願を聞いて疑いの無いことです。

疑いがないということは、自覚というよりも、本願をただ聞いているだけです。聞いて疑いないだけで、確かな何かが自分の中に「有る」のではありません。
「疑ふこころなきなり」が「聞」であり、それが信心ということですから、「疑い無い状態」が信心です。

日本語として「自覚」というのは、「自分自身の立場、能力などをよく知ること」と使われることが多いので、そのような自分自身の中にある何かをしることではなく、本願を疑いなく聞いているのが信心です
何かを分かることや、分かったことが信心ではなく、本願を聞いて疑いないことが信心です。