安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏に救われないと駄目でしょうか?(WTさんのコメント)

WTさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

そもそも人は生まれてきたからには、阿弥陀仏に救われないと駄目なのでしょうか。
阿弥陀仏の本願を知らずに死んでいくことは、いけないことなのでしょうか。
かわいそうなことなのでしょうか。
救われている人と救われていない人は、天と地ほどの差があることになるのでしょうか。
0点か100点かとも言えるのでしょうか。(WTさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100915/1284543361#c1284608818

質問が複数になっているので、段落を分けて書きます。

阿弥陀仏に救われないことは、ダメなこと?いけないこと?について

阿弥陀仏の本願に救われないとか、知らずに死んで行くことは、ダメとか、いけないことというものではありません。もったいないことです。折角阿弥陀仏が本願を建てられ、私を救おうとされているのですから、救われないことは実にもったいないことです。


救われている人と救われていない人は、天と地ほどの差がある?

何も差はありません。
阿弥陀仏に救われる前も凡夫なら、救われた後も凡夫です。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一念多念証文・註釈版聖典P693

欲も多く、怒り、はらだち、そねみ、ねたむこころが多くひまないのは、信前も信後も変わりません。「水火二河のたとへにあらはれたり」とありますように、二河白道の譬えで、阿弥陀仏の呼び声を聞いて、旅人が本願の白道を歩むようになっても、水の河、火の河は何もかわりません。同じように煩悩は何も変わりません。変わらないと言うことは、凡夫という点では何も変わっていないということです。
偉くなったわけでも、賢くなったわけでもありません。
ですから「どうだ!」と威張る必要もないのです。


0点か100点かとも言える?

0点とか100点といったテストの点数のような評価があるのではありません。
未信の人は、ダメな人(0点)で、救われた人は偉い人(100点)ということはありません。
救われても、救われていなくても、私という者は0点なのです。
ただ、そんなものを0点だからダメ、100点にしてやろうという阿弥陀仏ではありません。0点なら0点のまま救ってみせるというのが阿弥陀仏の本願です。
自分に自信がもてようが、もてまいが、阿弥陀仏はそんなことを気にされません。ただただ私を浄土に往生させてやりたいの願いしか有りません。

尊いとか、素晴らしいという言葉は、私につくのではなく、阿弥陀仏に向けられる言葉です。私はただ、助けられる側であって、偉いとかダメという価値判断はそこでは関係ありません。衆生かわいい、衆生かわいいが阿弥陀仏の願心です。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。