安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

前回の補足:南無阿弥陀仏を称えるとは2

前回の補足です。南無阿弥陀仏と称えることは、私の行ではないので、称名を何かに利用すると言うことは本来できません。また、利用できると思って称えるのは、自力の念仏であり、そういう人は、浄土往生はできないと親鸞聖人は教えられています。

仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば
 これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらはるる(高僧和讃67・註釈版聖典P590

念仏を称えていても、それでこの世での自分の願いを叶える道具に使うように思っている人は、雑修といわれて千人に一人も往生出来ないと言われています。
それだけではなく、自分の行のように思って往生の足しにしようとするのも、自力の念仏です。

阿弥陀仏が私を助ける為の行として第18願で選ばれたのが、南無阿弥陀仏です。阿弥陀仏は、その南無阿弥陀仏を私にあたえるために第17願を建てられました。
第17願は、十方の諸仏が阿弥陀仏の名を褒め称えることを誓われた願なので、諸仏称揚の願とか諸仏称名の願、諸仏咨嗟の願といわれています。称揚、咨嗟とは、褒め称えるという意味です。十方の諸仏に、南無阿弥陀仏を褒め称えさせることによって、私に聞かせようと誓われたものです。
そのことを、親鸞聖人はこのように言われています。

諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。念仏往生の願(第十八願)は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。(御消息19通・註釈版聖典P776

第17願である、諸仏称名の願(諸仏咨嗟の願)は、十方衆生に南無阿弥陀仏をすすめ、疑いの心を破るためのものです。阿弥陀経には、十方諸仏が南無阿弥陀仏の功徳を褒め称えておられます。この第17願は、私を救うための阿弥陀仏の巧妙な方法をとられた願です。第18願は、南無阿弥陀仏を私の往生の正業・正因と定められた本願です。

阿弥陀仏が成就された南無阿弥陀仏が、諸仏が褒め称えることによって、この地球ではお釈迦様の教えによって聞かせていただき、疑いを破り往生浄土の身にしてくだされるということです。