安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

18願に導くためにまず阿弥陀仏が建てられたのは17願。19願ではありません(唯信鈔より)

前回の続きです。
法蔵菩薩に対して、世自在王仏は、210億の諸仏の浄土とその人天の善悪を見せられます。
その浄土の中から一つ一つ善いところを選び取り、悪いところは選び捨てて、最も優れた浄土を建立するために長い間考えられました。

これをえらぶこと一期の案にあらず、五劫のあひだ思惟*1したまへり。(唯信鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P1340

これを五劫思惟といいます。


こうしてどのような浄土にするかを考えられたのですが、

国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。(同上)

どれだけ素晴らしい浄土であっても、衆生が往生することができなければ、本願を建てた意趣に合わないのです。


そこで、どうやって浄土往生をさせるかということを、法蔵菩薩は考えられました。

これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。(同上)

何を行じたら往ける浄土にしようかと考えて見たところ、どの行もみな易しいものではありませんでした。

孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。(同上)

親孝行なものを救うとしたら、親不孝なものは生まれることはできません。経典を読む者を救うとしたら、文字を読めない者は往生の望みが絶たれてしまいます。
布施・持戒・忍辱を条件とすれば、それができない人は、本願にもれ、捨てられてしまいます。
精進をせよと言われたら、懈怠な者は捨てられてしまいます。どんな行であれ、「その人ができる精一杯」といったところで、それが出来ない人は世の中に必ずいます。


そこで、全ての人を浄土往生させるために、一切の行は選び捨てられて、念仏一つを選び取られました。

これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。(同上)

南無阿弥陀仏一つで救うというのが、五劫思惟の結果でした。そこで、まず第17願に諸仏がその名号を褒め称えると誓われました。


南無阿弥陀仏で救うという第18願を建てられて、南無阿弥陀仏一つを私に与えるためにまず建てられたのは、17願であって、19願、20願ではありません。

17願は、諸仏が南無阿弥陀仏を褒め称えるということですが、別に阿弥陀仏が諸仏に褒めてもらいたいから建てられた願ではありません。褒められて嬉しいのは人間の話で、仏様にはそんな心はありません。南無阿弥陀仏一つで救うということを、私に教えるために諸仏に褒め称えさせるという願を建てられました。

この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ*2名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。(同上)

そのためお釈迦さまも、阿弥陀仏の本願は南無阿弥陀仏一つで救う本願であると教えられました。救われるためにはまず、善をせよ、努力をせよということは、仏願の生起本末にはありません。
「善をせよ、努力をせよ」が、善いことか悪いことかということ、「善悪」を、親鸞会はよく問題にします。「ことの善悪」ではなく、「仏願に適うか、適わないか」が問題です。
「一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがため」に、南無阿弥陀仏一つで救う本願を建てられたのですから、南無阿弥陀仏は仏願に適った行です。「善をせよ、努力をせよ」は、仏願に適っていないのです。

私に南無阿弥陀仏と働きかけられ、本願を信じ、念仏するものを必ず浄土往生させるというのが、阿弥陀仏の本願です。

それを聞いて疑いないのを信心といいます。

*1:阿弥陀仏が因位の法蔵菩薩の時、一切の衆生を平等に救うために、五劫という長い間思惟をめぐらしたこと。

*2:とりあえず。急いで。