南無阿弥陀仏を称えることについて、前回の補足としてエントリーをします。
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(教行信証行巻・註釈版聖典P146)
南無阿弥陀仏は、色も形もなく私たちの肉眼や耳では見ることも聞くこともできない阿弥陀仏が私を助けるために、名乗りを上げられたお姿です。ですから、南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏そのものが声となり現れて下さったものですから、人間の行いとは全く異なるものです。
そのため、称名は、私の無明の闇を破って下さり、往生成仏の願いを満たして下さるものです。そのため、南無阿弥陀仏を「最勝真妙の正業なり」といわれています。南無阿弥陀仏そのものが、往生浄土をさせる最も優れた働きがあるのです。
「正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり」といわれたのは、私を往生させる働きは念仏であり、しかもその念仏といっても、自力の念仏ではありません。私の計らいをまったく交えない、阿弥陀仏の徳そのものですから「念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり」といわれました。
「南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと」といわれたのは、南無阿弥陀仏はそのまま信心といわれています。
正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。(御消息1通・註釈版聖典P735)
南無阿弥陀仏を称えることは、まとめると
- 念仏はそのまま南無阿弥陀仏
- 南無弥陀仏はそのまま信心
- 信心はそのまま念仏
- 南無阿弥陀仏は、私を往生浄土させるお働きそのもの、阿弥陀仏そのもの
となります。
信心と言っても、念仏と言っても、2つのものがあるのではありません。おなじ南無阿弥陀仏であり、阿弥陀仏の本願力回向によって私に差し向けられる阿弥陀仏のお働きなのです。