(略)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100816/1281908747#c1281920660
私も、ただ今救われたいのですが、その気持ちが薄い・弱いのでしょう。
既に救われた方々がどうだったかはわかりませんが、「ただ今、ただ今」と必死に阿弥陀仏に向き合うことは私の能力を超えているので、できそうもありません。
明日、目が覚めたら、阿弥陀仏への疑いが無くなっていればいいのにな期待している私です。(徳永さんのコメント)
こうして質問をだしてこられる徳永さんの気持ちが、薄いとか弱いということはありません。
必死に向き合うようにならなければ救わないという本願ではありません。
「気持ちが強い」のハードルが、徳永さんのなかで随分あがっているのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
阿弥陀仏は向き合わないものは、追いかけてこられます。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82・註釈版聖典P571)
「摂取してすてざれば」に、親鸞聖人は、以下のように左訓されています。
【左訓】「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(異本)
逃げる者を追いかけて、救い取って下さいます。
明日ではなく、寝ている間でもなく、ただ今救い取って下さいます。
林遊さんのコメントにもありましたが、救われたいというのはどのようにおもわれているでしょうか?今の心境の中で、特に苦しいか、重荷に思われている部分があることではないかと思いますが、いかがでしょうか?