安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏のお呼び声を聞くには、少し心の淤泥を払ってから、という心がなくなりません。(頂いた質問)

阿弥陀仏のお呼び声を聞くには、少し心の淤泥を払ってから、という心がなくなりません。(頂いた質問)

阿弥陀仏は本願を建てられ、現在南無阿弥陀仏となって私に呼びかけて下さっています。その南無阿弥陀仏の相手は、現在ただ今の私です。

☓(現在の私)ー(少し心の淤泥)=南無阿弥陀仏と呼びかけられる相手
○現在の私=南無阿弥陀仏と呼びかけられる相手

阿弥陀仏が本願を建てる際に、五劫思惟されたのは、現在の私から少し煩悩を除いた私を想定するためではありません。そもそもそんな面倒なことを想定していたら、ただ今救うことが出来なくなってしまいます。

阿弥陀仏のお働きは、私の煩悩を全く障害とされません。もし障害があるようならば、質問にあるように現在の私から煩悩を減らさないと救えないことになってしまいます。私の心にある、いろいろな煩悩は阿弥陀仏が慈悲をかけられるところであって、嫌がられるところではありません。

それは阿弥陀仏が、一度私を摂取しても同じ事だとご和讃に書かれています。

(95)
煩悩にまなこさへられて*1
 摂取の光明みざれども
 大悲ものうきことなくて
 つねにわが身をてらすなり(高僧和讃95・浄土真宗聖典(註釈版)P595

阿弥陀仏に救われても煩悩が減るわけではありませんので、煩悩に目を遮られて摂取の光明をこの目で見ることはできません。
しかし、そんな私を阿弥陀仏は「こんな煩悩具足のものは…」と捨てられることはありません。常に照らし守って下さいます。それを「大悲ものうきことなくて」といわれ、

【左訓】「ものうきこと(なし)といふは怠り捨つるこころなしとなり」(異本)(浄土真宗聖典(註釈版)P595註釈)

と左訓されています。

阿弥陀仏は一度摂め取った私に対して、「怠り捨つるこころなし」で、夜昼つねに捨てられません。もし、煩悩が邪魔になったり、嫌われているのであれば「なんでこんな者を救ったり守らねばならないのか」とか「煩悩一杯の者を救い続けるのは大変だ」と思われるかもしれません。しかし、そんなことは一切ないので「大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」と言われています。

阿弥陀仏は、この私を救った後から煩悩を問題にされないのではありません。本願を建てられ、私を救おうと呼びかけられている時も煩悩を問題にされていません。「ただ今救う」とは、心の淤泥は問題にするな、ただ今救うとの仰せです。

阿弥陀仏が問題にするなといわれることは、問題にせずにただ今救われてください。

*1:さへられて…さえぎられて