自分の心を見て信心かそうでないかを決めるものではないと聞いていますが、やっぱり自分の心の有り様が気になります。(頂いた質問)
自分の心ばかりを見てしまう心は、自分の心と他人の心を比べるようになります。
「自分の心はこうだけれども、あの人はどうなのだろう」
「自分はあまり喜べないけれども、あの人は随分喜んでいるようだ」
他人の事が気になるのは、自分を中心に他人と比較するからです。自分を中心に、他人との比較や関係を考えるのは、この世の中のことです。しかし、阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏と私一人の間のことです。そういう点では、この世の中のこととは違います。
世の中のことでしたら、周りが景気が悪いから自分の所も悪いといったことはありますが、仏法のことは周りが救われていないから自分はまだ救われないということはありません。また、周囲に救われたという人がいるから、自分も救われるだろうという関係もありません。私一人が南無阿弥陀仏を疑いなく聞いていくのです。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82・註釈版聖典P571)
阿弥陀仏も、「みんな」を救うのではなく、私一人に向かって摂取して捨てないと誓われているのです。本願に疑いなく、南無阿弥陀仏と称える者は、十方世界のどこにいても摂取してすてられません。
この心をどうにかして救われるのではありません。阿弥陀仏の本願によって救われるのですから、阿弥陀仏の方に心を向けて下さい。