安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

もっと○○したらではなく、ただ今救われます(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)
そうすると「これが信仰が進んでいることで、この心がもっと深まって行って、どこかで何か方向転換が起きて救われるのかな」というように思ってしまいますが、違うのですよね?
今は、「もっと無常を観じてこのままだと救われずに死んでしまうぞと自分に言い聞かせたほうがいいか」とか「絶対救われないということをもっと深く実感できないか」とか「もっと阿弥陀仏に向かうべきか」とか「でもそれも自力だからやめておこう」とか「あ、これも自力じゃないか」とか思ったりしています。それほど深刻な心境でもなく、何を質問していいかも分からないのですが、すみません、山も山さん何か思われることなどありましたら教えていただきたいです。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091123/1258932745#c1259072959

回答します。
「この心がもっと深まって、どこかで何か方向転換が起きて救われる」ということではありません。もしそうなら、自分の心を変化させていったら救われることになりますが、それは阿弥陀仏の救いではありません。

「もっと無常が」とか「もっと深く実感」とか「もっと阿弥陀仏に」とか、「もっと○○になったら(したら)」救われるのでは、ただ今救われることはありません。
阿弥陀仏の回向される法が、あるところまでしか届かず、もっと○○したところまで行かねば救われないのではありません。

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(正像末和讃38

阿弥陀仏の本願は、私たちに回向されるものです。取りに来いという本願ではありません。
あれやこれやと準備をしてから、こうなってからでは、本願力回向の法ではありません。
現在ただ今、救いの法は差し向けられています。ただ今救われるのは、回向されている法だからです。こうしなければならないという思いは、他力回向を疑う心から起きます。
もっと○○したらではなく、ただ今救われます。