安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願と富くじ(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「獲信は、たまたま富クジが当たるようなものです。」と聞くと、
今生で、自分に富クジが当たらなかったらどうしよう・・・という気持ちが出てきます。
富クジに当たらないまま、十劫も迷い続けて来たわけですから・・・。(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100409/1270762502#c1270972278

富くじに喩えられているのはどこかと考えてみます。富くじは、本来働かないとお金が入ってこないのに、当たりが出ればお金が入ってきます。阿弥陀仏の救いは、自分がまったく修行をしないのに、阿弥陀仏の願力で往生定まる身になります。
元々自分でやらねば手に入らないものが獲られるという部分を喩えたものだと思います。
たとえたものを全部に当てはめると、あわないところが出てきます。
富くじにたとえた場合、あわないところは、当選の確率が非常に低いと言うことです。毎年盛んに広告を打っているドリームジャンボ宝くじの場合は、1枚だけ買って1等が当たる確率は、1年間で450回交通事故に遭って死ぬのと同じ確率*1だそうです。
確率から言えば「買わない方が得」なのが宝くじです。
加えて、当たりの数はあらかじめ決まっています。

阿弥陀仏の本願は、あらかじめ○人限定で助けますから聞いて下さいというものではありません。一人一人に建てられた本願です。

大勢の人を相手に、「(前後賞が)当たれば3億円!今年は1等が27本!」広告を打つドリームジャンボ宝くじとは違います。
私に向かって呼びかけられているのです。富くじで言うなら「貴方、当たってますよ!はやく引き替えして下さい」というところです。「買わなきゃ当たらないから、買いましょう」という広告とは違うのです。

弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ
 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃

阿弥陀仏は、大願の船で生死の海までやってこられて私を呼び続けておられます。

何年も求めてもなかなか救われないとか、何度も騙されてきたということが人によってはあります。
助けるからまず信じて下さいという阿弥陀仏ではありません。助けますよと阿弥陀仏は呼び続けておられます。