安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

簡単に救われるのはおかしい?について

前回のエントリーを書いて思ったことです。
親鸞会は阿弥陀仏に救われたことを語る人たちを「体験至上主義」といって非難をしてきます。
阿弥陀仏に救われたと言われる方の体験の真偽はさておき、体験を語ることそのものを問題視する考えの基にあるのは、阿弥陀仏の救いを自業自得(自因自果)の道理で考えているからではないか、と私は思います。

自業自得の道理で救いを考えると、結果として「30年聞いても助からなかった、50年求めても獲られなかったものが此処にきて求まった」と放言する者がいる」ということを、親鸞会内部の講師試験に出題するようになります。

これを自業自得の道理の考え方にそって読み替えますと

「30年、50年と時間や体力を費やしてもえられなかったものが、べつのところではそれほどの時間や体力を費やさなくてもえられた」と放言するものがいる。

となります。

大前提として、時間や体力やお金を投資しないことには、絶対に何も得られないという考えがあります。
「買わねば当たらぬ宝くじ」という考えです。どんなに当たる確率が低くても、買わないことには宝くじは当たりません。

もし「宝くじ買わないのに当たった!」という人が有れば、それはおかしいだろうと誰もが思います。宝くじは買わないと当たらないものだからです。

また、宝くじを買った人ではずれる人がほとんどなのですが、宝くじ売り場にはずれた苦情が殺到したということは聞いたことがありません。これは当選くじの数が非常に限られていることを、織り込み済みで宝くじを購入しているからです。

  • 何年はずれ続けても、買わないことには宝くじは当たらない。
  • はずれを何十年引いても、そもそも当たったことがある人がほとんどいない(知人に1等当たった人は聞いたことが無い)ので、当たらなくても不満はない。

しかし、阿弥陀仏の救いは上記のような宝くじが当たるようなものとはちがいます。阿弥陀仏の大慈悲の必然として救われることです。
川で溺れた人が、近くを通りかかった人に助けられたという話があります。救助された本人が、溺れた人に救助を求めていないのに救助されたと聞いても「おかしい」という人はありません。

「宝くじを買わないのに当たるのはおかしい」という理屈から言えば、「自分で救助信号を出さないのに救助されるのはおかしい」となります。しかし、このように言う人がいないのは、宝くじと溺れた人の救助では話が違うからです。

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(正像末和讃39・註釈版聖典P606

阿弥陀如来が本願を建てられた御心は、苦しみ悩む者を捨てられない大慈悲によって、回向を第一とされたものです。
回向とは、救助することが第一ということです。
助けて欲しければ、まず何かをしなさいでは、「回向を首」とはなりません。

「簡単に助かったというのはおかしい」という発想は、阿弥陀仏の大慈悲は、回向を首として建てられたことがわからないところから来ているのだと思います。