安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

無常観について・仏法に明日はないについて(頂いた質問)

最近、無常を強く感ずる機会があり、短時間でしたが胸が締め付けられるような苦悶の状態になり、阿弥陀仏の本願を聞き開かずしてはこの苦はもう抜けない、と思いました。
(略)
この体験から「無常観(感)」こそ、ただ今に救いを求める原動力、救いを獲るカギになるものと心得ました。
この心得はこのまま持っていてよろしいでしょうか。(頂いた質問)

無常を感じるということで、「ただ今救われなければ」と思われたならば大変尊い事と思います。
しかし、その無常を見つめていったならば、阿弥陀仏に救われるということにはなりません。無常を見つめた切迫感を手段として、あるいは自分の差し迫った思いを阿弥陀仏に差し向けて救われようとするのではありません。
自分の必死な思いを差し向けるとは、
「こんだけ苦しんだから、阿弥陀様いい加減に助けて下さらないでしょうか」
「もっと苦しまないと助からないのでしょうか」
と、自分の気持ちを提示して阿弥陀仏から救いを引き出そうという祈願の心です。

阿弥陀仏の本願は、元より私の必死な気持ちを必要として建ててはおられません。
阿弥陀仏は、私を助けようと本願を建てられ現在も助けようと働いておられます。

私を助けるという、私はいつ、どこにいるのかといえば、私はここにしかいません。いつに会えるかといえば、私は今にしかいません。

他人を捜すとなると、どこにいるのか、いつ会えるのかということが問題になります。他人なら「向かいのホーム 路地裏の窓 こんなところにいるはずもないのに」(参照:山崎まさよし one more time one more chance)
*1と探すことになってしまいます。
しかし、自分は探す必要もなく、現在ただ今の、ここにしかいません。

私が救われるのは、ただ今しかありませんし、今いるここでしかありません。
そういう意味で、ただ今しか救われる時はないということです。
切迫感が救いの条件であるから、それを持たせるために、今しかないといわれているのではありません。

仏法には明日と申すことあるまじく候ふ。仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふなり。(御一代記聞書

といわれるのは、「明日救われる」ということは、第三者にはあっても、「私」にはないからです。「私」が救われるのは、いつでも「ただ今」ですから、「明日ということはあるまじく候ふ」なのです。

このただ今といっても、命のある間のことです。命はまたいつ尽きるかわからないはかないものです。だから、今の私があるただ今でないと救われる時はありませんから急がねばなりません。
急いだら救われるからではなく、今がいつまでもないからです。生きている間ならば、必ず救う本願があります。

*1: