安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

前回の補足:病人に対して健常者になれという本願ではありません。

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)
本会では、唯除された者だと信心決定の時に知らされ、それが機の深信みたいに説明されていて、だから救われるに間違いなし、堕ちるに間違いなしの絶対的矛盾自己同一の信心だみたいに習っていた気がします。
排除とは聞いた記憶がありません。そんなことを講師に対しては言っていたことがあるということですか?どういうことでしょうか?(メンデルさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100805/1280975068#c1281019019

コメント欄にも書きましたが、排除という言葉で親鸞会内で説明しているのは聞いたことがありません。どうして元講師や退会者に対して特に排他的な言動をとるのかを考えて出した言葉です。

唯除五逆誹謗正法と、五逆と誹謗正法の者を除くといわれたのは、それらの恐ろしい罪を作ったことが無い者に、本願から除かれる恐ろしい罪だから作らないようにと抑止されるお言葉なので、抑止門といわれます。

前回のエントリーにも紹介した、尊号真像銘文のお言葉にあるとおりです。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文・註釈版聖典P644)

親鸞会では、すでに五逆罪、謗法罪を全ての人はつくっているという前提で話をします。
コメントにあります。

唯除された者だと信心決定の時に知らされ、それが機の深信みたいに説明されていて

というのが、それにあたります。

親鸞会ではよく、上記のような話をします。

  1. 自分はすでに五逆の罪をつくり、謗法の罪を作って唯除されている
  2. しかし、それを自覚していない自覚無き病人であるという説明をしています。

私たちは、恐ろしい難化の三機・難治の三病人だけれども自覚が無いところがまた恐ろしいというような説明をします。

阿弥陀仏に救われると言うことを、病人の病気が全快することに喩える話があります。その譬えは、阿弥陀仏の救いは聖道仏教で言うような自業自得の救済ではなく、医者が治す力が無い病人を救うような大悲の救済をたとえられたものです。
しかし、親鸞会の多くの人は「病が全快」というところを、「病人が健常者になる」ようなものが、阿弥陀仏の救いだと思っているようです。

病人が、健常者になるために仏法を聞いている、その集まりが親鸞会という訳です。親鸞会の中の人の感覚から言いますと、「自覚無き病」は善に励み、親鸞会当局の言うとおりに管理されないと発病して治療不可能な状態になり、かつ治療不可能状態が他人に感染するように考えています。

例えていいますと、アルコール中毒患者のセラピー団体が親鸞会とすると、アルコール中毒が完治したのが獲信というような考え方です。ですので、セラピー団体の趣旨に反することや、酒を飲み始めるような人は隔離または排除されます。
「自分たちは病気を治そうと一生懸命なんだ。やる気のない人たちは出ていってくれ。他の人を巻き込むな。また、出ていった彼らに近づくな」という感じでしょうか。

逆謗や、難化の三機を病気とするならば、私は死ぬまで健常者(逆謗でない者、難化の三機でない者、はっきりとした強烈な自覚のある人)にはなれません。
治らない病気をもった人に、健常者になれと言い続けることは、「今のままのあなたではダメです」と常に自己否定を言い続けているような物です。その指導に従い治そうと努力を続ける人は、自己否定の発言に耐えていきますが、親鸞会は強い管理と、方針に従わない者を隔離、排除しようと心がけます。

その治らない病気が、あっという間に完治して健常者になるのが一念と思っているようですが、死ぬまで病気は治りません。
阿弥陀仏の本願は、病気のままでもよいから、そのままの姿で浄土へ連れて行くぞと誓われているのです。
病人を健常者にすることが阿弥陀仏の救いではありません。病人は病人のまま、凡夫は凡夫のそのままを救うのが阿弥陀仏の本願です。

最後に、絶対矛盾的自己同一という言葉について書いておきますが、阿弥陀仏の救いは矛盾でも何でもありません。
「阿弥陀仏の力によらねば」絶対にたすからない者が、「阿弥陀仏の力によって」絶対に助かるということです。「阿弥陀仏の力によって」と本願力回向の言葉を補足すれば日本語としても矛盾しないものです。

追記

2010/08/08 6:15 傍線部分を削除