安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われた人=選ばれた人ではない理由

前回のエントリーに関連して、頂いた質問について書きます。

助けられる努力は不要という説明は分かりました。
しかし、それまでは真剣に聞こうとしたり、なんとか助かろうと思うことは大事なのではないかと思います。そういう気持ちは大事ではないのでしょうか?(頂いた質問)

きっとこんな人が助かるのだろう、救われた人はきっところげまわって苦しんだのだろうという考えが強いのだと思います。
「救われた人=選ばれた人」と考えるところからでてくる発想だと思います。
阿弥陀如来の大慈悲は、苦しみ悩む凡夫全てにかかっていますが、ある人とある人によって差別はありません。差別がないと言うことは、「救われた人=選ばれた人」ではないのです。

先週終わった参議院選挙でも一人区なら、候補者が何人いても一人しか選ばれません。また、救助活動といっても一人の人間で、百人の溺れている人を一度に助けることはできません。

一対多ではなく、一対一

阿弥陀如来は、一人一人に阿弥陀仏が呼びかけられているのです。「みなさん私にまかせてください」という一対多の呼びかけではありません。

西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉(教行信証信巻より・註釈版聖典P224)

二河白道の喩え話で、西の岸におられる阿弥陀仏が旅人に向かって呼びかけられているのが、上記のお言葉です。
この話でも、旅人は一人です。東の岸にものすごい沢山の人がいる状況で特定の一人または複数の人に呼びかけておられるのではありません。

「汝」とは、私のこと

「汝」と、目の前の一人の人に向かって呼びかけられるのが、阿弥陀仏の呼びかけです。阿弥陀仏が呼びかける対象は、「汝」と呼びかけられた一人の人であり、それは私のことです。
多くの人がいるなかで「汝」といわれても分からないかも知れませんが、一対一の状況で「汝」といわれれば「私ですか?」と確認する必要もありません。
阿弥陀仏からすれば、「他の誰に呼びかけていると思っているのですか?」といわれるところです。

選ばれた人ではなく、疑いなく聞いた人

「救われた人=選ばれた人」ではなく、汝と呼び続けておられる本願を疑いなく聞いた人です。世の中に多くの人はありますが、それぞれに阿弥陀仏は一対一で呼びかけておられます。選ばれる必要は無いのです。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。