安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

助かる努力は必要という考えについて(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われるのに、なにか努力が必要なように思います。弥陀をたのむとか、自力を捨てよといわれると、阿弥陀仏をたのむため、自力を捨てるためには何かしらの努力は必要なのでしょうか?(頂いた質問)

自分の力で助かるのでしたら、ちょっとどころではない大変な努力が必要です。しかし、助けられるには努力は不要というより、合わない言葉です。
乗っていた船が転覆した人が、自分の力でなんとか岸まで泳ぎ着いたらならば、「どうやって助かったんですか?」と聞くことはあると思います。また、尋ねられた人も「救命胴衣をつけて、必死に泳ぎました」などと答えることもできると思います。

助けられた人に、助かる努力は不要

しかし、海水浴場で溺れているところを発見され、ライフセーバーに助けられた人に「どうやって助かったのですか、どんな努力をしたのですか?」と聞く人はないと思います。また、尋ねられた人も答えることはできません。
それは、(自分の力で)助かったのではなく、助けられたからです。
助けられるということには、努力という言葉は結びつきません。助けられた人が、溺れずにすんだのは、助けた人の力によるものだからです。

助けられる=選ばれるという考え

助けられる努力ということが、もしあるのならば、その前提には、助ける阿弥陀仏が多くの人のなかから、何人かを選んで助けているという考えがあると思います。多くの人のなかから選ばれる努力は、阿弥陀仏の救いに関しては不要です。就職の面接や、何かのオーディションとは違うのです。他の人に優れていなければ助けないという仏様ではありません。

もろもろの衆生は、みなこれ如来の子

如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。
まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。(教行信証信巻・註釈版P288

助かる努力が必要かどうかという疑問は、阿弥陀仏が私を選んでくださるのかどうかという疑問と同じです。助けて下されないかもしれないという疑問は、如来が私のために常に父母となって下さっていることを知らないからです。
親になってくれるだろうかという心配をしているようなものです。
そんな心配は不要です。如来は現在私の父母であり、私は如来の子なのです。

現在の親の子どもに生まれた人が、またその親の子どもになる努力は不要です。ただ今その親の子どもだからです。

結論:「助けられる」のだから「助かる努力」は不要

自力を捨てよも、弥陀をたのめも、全て阿弥陀仏に助けられなさいといわれているのですから、助かるために、また選ばれ助けられるの努力をしなさいといわれているのではありません。
何かしないと助けて下さらないのではないか、選んで下さらないのではないか、見捨てられたり見逃されるのではないかと思うこころが、阿弥陀仏の大慈悲を計らっている心です。
自力を捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。